所領の拡大
「これは…、初めて食べる食感と味、口の中で蕩けるようだ…」
「この天麩羅と言うのも旨い、表面はサクッとした食感が堪らない」
「この唐揚げと言うのも初めて食べる味だ。 鳥の肉と言うがこのような旨い鳥の料理は食べた事が無い」
品川湊にある道灌の館に宇田川清勝と町の有力商人を招いて夕食を振舞っているがすぐ手に入る食材で慌てて作った割には初めて食べる料理に舌鼓を打っている。
うん、大好評だ。
個人的には唐揚げの付け込みが甘くてイマイチだし天麩羅も海産物を使いたかったが鮮度の良い生魚が無かったので野菜だけなのが不満ではある。
牛乳が手に入らなかったからデザートのプリン作れなかったし。
道灌も道灌だ! 自分の館なんだからもっと食材をしっかり用意しとけよ!!
扇谷上杉家の家宰だろ!!
もっとしっかりと古今東西の食材を集めとけって感じだ。
だが俺の不満を他所に清勝を始め集まった商人達は満足そうに料理を食べているからよしとしよう。
「いや~、この宇田川清勝、虎千代様を我が屋敷にお招きしてお持て成しをさせて頂きたいと申したのが恥ずかしくなってまいりました。 このような料理と比べると某が用意する料理などありふれた物、危うく恥をかくところでございました」
「そう謙遜なさらずとも、それに荏原郡と品川湊が豊嶋家の管理するところとなればこの程度の料理、毎日でも食べれますよ。 調理法も豊嶋領では特に秘匿しておりませんので食も豊かになる事は間違いなしですよ」
「それはそれは、このような料理が毎日食べれるとは…、しかしながら豊嶋様は今関東管領様と合戦中、大切な取引先である上杉様を始めとする方々と取引が出来ぬとなると、料理の作り方は分っても食材を買う金が無くなってしまいます」
「まあそうだろうな。 恐らく他の者もそれが一番懸念している事であろう? だが俺は商人の取引に口を出すつもりはない。 まあ依頼はするであろうが今まで通り関東管領家などと取引をして構わない」
「なんと!! それでは豊嶋様の敵に兵糧や武具などを売っても構わぬと? しかしそれでは豊嶋様の為にならぬのでは?」
「品川湊は関東の米蔵と言われているぐらいだ、取引を禁止したらそれこそ武蔵、上野の国人衆が黙っておるまい。 豊嶋が品川湊に求める事は2つ、矢銭を豊嶋だけに納め他には一文も納めない事、米や武具は適正な価格で売る事、この2つだけだ。 後は湊を整備し船が横付け出来る船着き場に加え大型の船も作るからいずれは堺どころか明とも交易をして貰うつもりだからな」
まさか商売相手を制限されないどころか船を横付け出来る船着き場の整備どころか明との交易等と言われると思っても無かったのだろう、集まっている者達は一様に驚いている。
江戸湊も品川湊も湊と言うものの遠浅の海岸にある為、大型船が入れず、小舟を使って荷の積み下ろしをしないといけない為、船が横付け出来る船着き場と言うのはその手間が大幅に省ける事を意味している。
商人達からしたら船着き場の話だけでも魅力的なはずだ。
なんせ小舟に移し替えたりする際に海に落とし荷をダメにする事も無くなるうえ、積み下ろしの時間が大幅に短縮されるんだからその分効率があがり船さえあれば輸送能力が向上するからだ。
その後も今後の事について話合い、清勝達が帰って行ったのは夜遅くになってからだった。
それにしても話の場に居た照の親を聞いた時は全員が驚いていたな…。
俺の正室だと言った時は「美しい奥方様」とか「武者姿も凛々しかった」とか言ってたのに道灌の娘と聞いた瞬間には目をひん剥いていた。
照は道灌の娘と言われるのが嫌だったようで「もはや父ではありません!!」と言ってたけど、照が道灌の娘で俺の正室と言うだけで一気に話が纏まって言った感じだ。
恐らく道灌と豊嶋は争いはしたものの縁戚関係にあるのでいずれ関係が改善されると思ったのかもしれない。
翌日、俺は道灌の館で商人達と今後について具体的な話と湊の視察をし、武石信康には600人の兵を率いさせて荏原郡の制圧に向かわせた。
昨日の内に平塚城を出発し世田谷城を攻めに向かっているはずの庄宗親の援護にもなるし早いうちに吉良家と太田家の影響力を弱めておけば後々の統治が楽になる。
まだ昨日道灌が敗戦した事が伝わって間もないから混乱しているだろうし。
品川湊にあり道灌の屋敷に滞在して3日目の昼頃、荏原郡の制圧を命じていた信康が戻って来た。
実の所、道灌の館を占拠し清勝を始め商人達を持て成した翌日には品川周辺の国人衆がチラホラ臣従の申し出に来だし、当日の夕方には世田谷城が豊嶋家の手に落ちた事で、豊嶋家の支配を良しとしない親道灌派の国人衆以外は落城の知らせを聞き、我先にと俺の所か世田谷城を落とした庄宗親の元に臣従を申し入れていた。
信康は親道灌派の国人衆を攻め領主を討ち取るか逃亡に追い込み戻ってきた感じだ。
ここでも鉄砲と大鉄砲が活躍し、味方の被害は無し、討ち取った領主も鉄砲の餌食となった哀れな者だけで、殆どは未知の武器で数名の領主率いる兵が全滅したと聞き、信康が向かった時には既に逃亡していた。
風魔衆からの報告では世田谷城は言うに及ばず、赤塚城へ向かった滝野川守胤も赤塚城を無血で占領し、そのまま北上し道灌の家臣が守る岡城(現在の朝霞市)を攻め取ったとの事だ。
赤塚城城主であった千葉自胤は元々下総、上総を領する千葉家、惣領家の人間だったが家臣と一族に家を乗っ取られ上杉家を頼り武蔵に流れて来たと言う経緯があり、兄である千葉実胤は石浜城(現在の南千住3丁目付近)を弟である自胤は赤塚城を与えられただけというだけで下総から逃れてきた際について来た少数の家臣を除きほとんどが武蔵で召し抱えた家臣という事もあり、滝野川守胤の兵が赤塚城に到着した際には殆どの家臣は石浜城へ逃げ去っており、城に残っていたのは赤塚周辺に所領を持つ一部の者だけだったらしい。
その者達も守胤が豊嶋家に従うなら所領を安堵する旨を伝えるとあっさりと降伏した為、その勢いのまま岡城を攻略したらしい。
その岡城もまさか攻められるとは思っていなかったようで防戦の支度が出来ておらず城主とその家臣は川越城方面に逃亡し守胤は赤塚城に続き岡城まで無血で手に入れた。
現在は守胤を含め家臣総出で赤塚城、岡城周辺に所領を持つ領主達を豊嶋家に従属させる為奔走しているらしい。
因みに江戸城で捕えた千葉自胤の兄である石浜城城主千葉実胤は江戸城落城の2日後に自ら江戸城に来て豊嶋家に臣従したとの事だ。
どうやら弟の自胤は下総復帰を諦めていない感じらしいが、兄の実胤は既に下総、上総の支配を千葉輔胤・孝胤親子(以前は岩橋姓)が盤石となっている為、復帰を諦めており、今は千葉宗家の血筋を残す事だけしか考えていないらしい。
諦めが良いと言うよりしっかりと情勢と現状を見極める目があると言う感じだ。
そして江古田原沼袋の戦いから6日目、父である泰経の命で諸将は落とした城とその所領の管理を家臣に任せ江戸城へと集まった。
どうやら関東管領家である山内上杉家、扇谷上杉家、三浦家から書状が届き、数日中に使者が来るらしいので今後についての評定を開くそうだ。
書状の内容は、捕えた者を解放しろとの内容と、奪った所領を返還しろとのこと。
三浦家の書状はかなり柔らかい内容で捕えた当主を返して欲しいので交渉がしたいと言う感じだったらしい。
うん、江戸城に戻ったらまず俺は説教を受ける所からだな…。
確実に俺が今回の合戦における一番の功労者なんだけど、勝手に出陣したし、諦めて説教を受けよう。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
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