長尾景春の乱の始まり
転生して来てから早7年が経ち1476年になった。
俺も12歳とはなったものの、史実で豊嶋家が滅ぼされるまで後1年半と迫って来ている。
だが史実とは異なり俺がチートアイテムと言うべき物を持ち転生し、与えられた所領で色々と開発し兵を養っているという事だ。
実際に現在俺の所領は米の貫高だけでも5000貫、他にも麦や蕎麦、稗や粟などを加えたら8000貫を優に超し、それに加え砂糖にインスタントコーヒー、清酒や焼酎を始め石鹸や蝋燭、菜種油、鳥の燻製、綿の布など様々な物の売り上げで収入も年間5000貫文程がある。
まあ5000貫文の収入があっても鉄などを大量に仕入れているから純粋に手元に残るのは2000貫文ぐらいなんだけど、おかげで専業兵士も900人に増え、武具なども統一出来たし、鉄砲隊も150人に増えた。
本当は鉄砲を200丁揃え鉄砲隊を200人にしたかったんだけど、遊び心が芽生え、鉄砲鍛冶に新たな依頼を出したので生産量が一時的に低下しちゃったんだよね…。
それにしてもネットで調べた歴史と俺が転生してから見て来た歴史にかなりの差異があるのには驚いたが、よくよく考えてみたら常に勝者が自分達の都合の良い内容を後世に残すのだから勝者は常に美化される。
稀に自身で、または家臣が何があったのかを日誌のように記していた物が後世に伝わっている人も居るが多くの場合、落城の際に城と共に燃え尽きたり、勝者によって破棄されたりして伝わっていない事が多いからだ。
道灌も本来なら定正に殺され、歴史の闇に葬られていたかもしれないが、太田道灌状を始め道灌に関わる書状等が残っており、それに加え恐らく江戸城が幕府を開いた徳川家の居城になった事も美化されて伝わった理由の一つだと思う。
俺から見た道灌は結構、野心家で悪辣なイメージなんだけどな…。
そんな道灌も扇谷上杉家のお家騒動を昨年末までに片付けて2月末には駿河に兵を率いて今川家のお家騒動に首を突っ込みに行った。
因みにお家騒動が昨年のうちに収まったのかと言うと、俺の善意と言う名の嫌がらせで流した噂が裏目に出て上杉家の家督は定正と相模の国人衆が認め従ってしまったんだよね。
所領の少ない小身の国人衆が反定正で兵を挙げたりすると思っていたのに、兵を挙げさせそれを討伐し所領を定正とその家臣の物とすると言う噂を信じた国人衆が所領を奪われるぐらいならと臣従を申し出てしまうと言う予想外の行動に出てしまった。
その報告を聞いた時、余計なことをしなければよかったと心から思ったのは言うまでもない。
反乱を起こさせるつもりが表面上であろうと結束を強める結果になったし。
そんな背景もあり、駿河守護の今川義忠が遠江国で討ち死にした事で今川家の家督をめぐって遺児の龍王丸と従兄の小鹿範満との間で内紛状態となった為、定正の意を受け小鹿範満に家督を継がす為に犬懸政憲と共に4000人を超える兵を引き連れてお家騒動に介入しに行った。
援軍を得た小鹿範満が武力にものを言わせ家督を奪取するかと思われたが、関東管領とその一族、分家の力が強まる事を恐れた幕府は討ち死にした今川義忠の嫡男である龍王丸を擁立すべく伊勢新九郎盛時、後の北条早雲を駿河に向かわせた事で範満とそれを擁立すべく兵を連れて来た道灌達も武力で家督を奪取する事が出来なくなってしまった。
風魔衆の報告では現在の所、両陣営も表面では交渉の場を設け話し合い、水面下では味方を増やすべく今川家の家臣や国人衆の取り込みに必死な状態らしい。
今度は噂を流したりと余計な事はしないでおこう。
前回みたいに裏目に出て史実と異なる事になったら面倒どころか今後の先行きが見えなくなってしまうから…。
そして5月になると今度は武蔵で史実通りに大きな動きがあった。
鉢形城で沈黙を保っていた長尾景春が関東管領である山内上杉家に対し兵を挙げ反乱を起こしたのだ。
長尾景春とは俺の祖父の長尾景信の息子で俺の母の兄で俺の伯父にあたる人物である。つまり父の泰経にとっては義兄にあたる。
当然兵を挙げたと言う知らせが父の元に届き、その書状には豊嶋家にも兵を出してほしいと言う内容が書かれていたが父は「時が来れば」と、返事を送っただけで特に主だった動きはしなかった。
だが駿河に行っていた道灌は慌てたようで知らせを受けるなり、伊勢新九郎盛時と会談の場を設け、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすると言う、盛時が提示した停案を呑み6月には兵を率いて帰って来た。
道灌は武蔵に戻って来るなり急ぎ両上杉家の当主が居る五十子陣に向かい対策などを話し合っているらしい。
ネット情報では懐柔案から暗殺案そして討伐案まで出したらしいけど山内顕定と上杉定正は所詮は景春一人の反乱であり国人衆の多くも様子見をしている状況であるとしていずれは兵を退くだろうと相手にしなかったらしい。
そして風魔衆の情報によると道灌が顕定に「某が使者として鉢形城へ向かい家宰とする承諾を得たと言い、平井城に誘い出したところを某の一存で謀殺する」とまで言ったようだが、関東管領の名に関わると一蹴されたとの事だ。
実際に鉢形城にて兵を挙げた景春の元に集まった国人衆は少なく、鉢形城から動く気配を見せていないので当然の判断といえば当然ではあったが、道灌は自身が出した案が受け入れられないと見るや早々に江戸に戻り合戦に備えだしたとの事だった。
風魔衆より道灌が江戸城に入ったと知らせを受けた翌日、父である泰経の元に道灌からの書状が届いた。その内容は、宮城の城下に船着き場を作り、江戸湊の商人を苦しめている事、江戸、品川湊の商人に今まで売っていた品を少量しか卸さなくした事は不問にするので、景春に味方せず、景春が兵を動かしたら扇谷上杉家に従い討伐の為の兵を出すようにとの内容だった。
それを読んだ父は怒っていたが、俺はある意味呆れたと言うより笑いが出た。
この時代、家柄や幕府が与えた守護や守護代という役職や朝廷から与えられた官位等で上下関係が出来ているとは言え、あまりにも一方的であり、あたかも豊嶋家のしていることを悪として、それを見逃してやるからとは、もはや呆れを通り越して笑うしかない状況だからだ。
そもそも道灌が江戸湊の権利を一方的に豊嶋家から奪った事で今回の対抗策を講じる事になったと言うのに、道灌の図太さにはある意味恐れ入る。
返事は書かないで無視すると言う父を説得し「豊嶋家は争いを望んでいない」と言う曖昧な内容の返事を書かせ送りつけたが、その後も言質を取りたいのか同様の書状が送られて来たが、その内、今年は気候が良さそうなので収穫が期待出来るとか豊嶋家で作る清酒が旨いとか、今度武蔵の国人衆を集めて酒宴を開こうなどと言う内容に変わっていった。
恐らく他の国人衆にも書状を送り去就がはっきりしない家には同様に書状を送りつけてるんだろうな…。
そんなやり取りをしつつ年の瀬を迎え、1477年の1月1日元旦を迎えた日の昼頃、大晦日に鉢形城を出発した長尾景春が五十子陣を強襲した!
恐らく鉢形城周辺に間者を送り込んでいなかったのか、景春の軍を迎撃する体制を整えていなかった山内顕定と上杉定正は景春率いる2500人程の兵に両上杉の軍は総崩れとなり顕定は上野へ、定正は相模に敗走した。
これにより長尾景春の乱が本格的に始まった。
ここからが豊嶋家の行く末を決める分岐点になるはずだ。
元服はしてないけど豊嶋家内での発言力も得ているし、ここで滅びないように、そして武蔵での勢力を拡大させないとな。
大きな乱は所領拡大のチャンスでもあるんだから。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
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