SS 補足
補足入れるタイミング間違えました。
申し訳ございません。
■豊嶋氏
桓武天皇の5世である平忠頼と、平将門の娘、春姫との間に生まれた平将恒(将常とも)が武蔵国秩父郡を拠点として「秩父将恒」と称した。
1023年、藤原真枝が勅命に反し武蔵国にて兵を起こした際、将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて戦い、藤原真枝を自害に追い込み、鎮圧した功で駿河・武蔵・上総・下総に領地を得たと言われて、秩父将恒の次男、武常が豊島郡を領し豊嶋氏と称したのが始まりとされる。
※次男、武常ではなく、二代後の康家が豊島氏の初代との説もあり。
その後、一時、所領を没収されるも許され返還されたりと紆余曲折があり、最盛期には豊島郡の他に足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡に所領があったと言われる。
豊嶋氏19代?当主、豊嶋泰経(本作では虎千代の父)の代に太田道灌と江古田原沼袋で争うも弟の泰明を始め一門衆が討ち死にする大敗を喫し、石神井城に敗走、石神井城落城後は平塚城、小机城で抵抗するも、小机城落城後は動向が不明となりその後歴史から消える。
★石神井城
現在の西武池袋線、石神井公園駅近くにある三宝寺池に遺構が残っている。
(遺構への立ち入りは禁止となっている)
現在ある石神井池、通称ボート池は1934年に造成されたもので、昔は三宝寺池から涌き出る水が川となり流れていました。
尚、何と三宝寺池すぐ脇に水辺観察が出来る場所は、日本初の100メートルプールが大正時代に作られました。
★練馬城
現在は閉園となった、「としまえん」が練馬城跡となる。
丁度ウォータースライダーがあったあたりと言われている。
「としまえん」のプールで遊んだことがある人は知らず知らずのうちに練馬城跡に足を運んでいた事になる。
★平塚城
豊嶋郡の郡衙(役所)があった場所で平安時代に豊島近義が築城したと伝えられています。
現在は平塚神社がある場所が平塚城址と言われています。
豊嶋氏は1300年代後半から1400年代前半に石神井城へ本拠を移すまで平塚城を本拠としていたと言われている。
★赤塚城
豊嶋家の庶流が赤塚に所領を持ち、赤塚氏を称したが、1456年に千葉自胤が築城したとされ、その当時既に赤塚一帯は豊嶋家の所領ではなくなっていたものと思われる。
石神井城との距離が近く、豊嶋家に対する監視の為に築城された可能性もあるが、水運、陸運を掌握する為の要衝の守りとして築城されたものと思われる。
■太田氏
摂津源氏の流れをくむ源広綱を祖とする。
広綱の子孫の源資国が丹波国桑田郡太田(現在の京都府亀岡市薭田野町太田)を本拠とし、太田氏を称したとされているも、その後の動向は不明。
太田道灌の父である太田資清(出家後、道真と名乗る)が関東管領山内上杉家の一門である扇谷上杉家に仕え家宰となり、道灌も後を継ぎ家宰となる。
そして息子である道灌と共に、川越城(埼玉県川越市)岩槻城(埼玉県岩槻区太田)を築城(岩槻城に関しては成田正等説もあり)
道灌が江戸城を築城し、長尾景春の乱以降、勢力、名声を高めた事に危惧した主君上杉定正に道灌は謀殺される。
■長尾氏
桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で長尾氏が鎌倉氏一門のなかでも古い一族と言われている。
源平合戦時、平家に味方し、鎌倉幕府が開かれると三浦氏の傘下に入る。
宝治合戦で一族がほぼ討ち死にし、没落したが、わずかな生き残りが鎌倉時代末期から南北朝時代初頭頃に関東へ入部した上杉氏の家臣となり婚姻などを駆使し上杉家の筆頭家臣となる。
そして上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、家宰の地位に加え、越後、上野、武蔵の守護代として各地に分家を配し勢力を拡大した。
長尾家は、主に、鎌倉足利長尾氏、白井長尾氏、総社長尾氏、越後長尾氏、となり、主に関東管領山内上杉家の家宰は鎌倉足利長尾氏、白井長尾氏、総社長尾氏3家の持ち回りとなった。
その後関東管領家の勢力が弱体化すると後北条家に下り、小田原征伐後多くの家が改易となる。
尚、越後長尾家はさらに上田、古志、三条長尾家の3家に別れたが、三条長尾家が越後守護代職を世襲し、長尾為景の代には上杉定実を擁立して守護上杉房能を廃した(永正の乱)。
その後、房能の実兄であり関東管領でもある上杉顕定が越後に攻め込んだがこれを為景は破り顕定を討ち取った。
※因みに、下剋上を起こし関東管領上杉顕定を討ち取った長尾為景は後の上杉謙信の実父。
■上杉氏
藤原北家勧修寺流の流くむ一族で、鎌倉時代の中頃まで京都の地下家(昇殿を許されていない下級の公家)の家柄とも言われる。
丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉町周辺)に所領を与えられ、上杉氏を称した。
しかし藤原氏出自は系譜仮冒で、実際の出自は足利家に仕える下級武官だったともいわれ真偽はさだかではないが、鎌倉時代末期に鎌倉へ下向し武家になったと言われている。
上杉家の息女、上杉清子が足利尊氏の母であることから生母の実家との事で上野守護、越後守護、武蔵守護となり、その後、関東管領となる。
上杉家は関東管領の職を世襲し、一門で上野、越後、武蔵、相模の4か国の守護を務める有力な守護大名として栄え、山内上杉家を嫡流として、犬懸上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家の諸家が出たものの、犬懸上杉家、宅間上杉家は没落し、山内上杉家、扇谷上杉家の2家になるが、関東管領職は山内上杉家が世襲した。
1454年に、当時鎌倉公方であった足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに端を発した享徳の乱の勃発により関東は応仁の乱よりも十数年早く戦国時代になったと言われる。
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