戻りたい
「変わらないな」
見上げる先に建つ一棟のマンション。
ここに私は3年前まで住んでいた。
優しい主人と夫婦2人で...
「あら石井さん」
「...山口さん?」
不意に後ろから声を掛けられる。
振り返った先に居たのは山口さん。
私が住んでいた時のお隣さんだった。
今はもう石井じゃない、離婚して旧姓の斎藤に戻ってしまったのに。
「お久し振りね、石井さんは引っ越されましたよ」
「引っ越した?」
「ええ、去年だっかしら?
お付き合いされている方と一緒に暮らすとかで」
「そうですか」
主人に付き合っている人が?
いや元主人か...
「なんでも幼馴染みだった人ですって。
素敵よね、初恋の人と再び巡り逢うなんて」
「失礼します」
嘲る視線に堪えかね急ぎ足で立ち去る。
彼女は私の離婚原因を知っている。
元彼との不倫の果てに離婚された事を。
夫の貯金を持ち出し、彼に貢いでいた事も全部。
噂話が大好きだった彼女の事、きっと今日の内に私の話はマンション中、いや近所の噂になるのだろう。
元彼と不倫の果てに離婚した愚かな女がみすぼらしい格好で未練たらしく住んでいたマンションを見上げていたと。
「その通りなんだけど」
自分の着ている服に目をやる。
安売りのバーゲンで買った物。
靴もそうだ、鞄もイヤリングも全部...
使い込んだお金は両親が立て替えてくれた。
慰謝料も全部。
4年間の結婚生活では共有財産は殆ど無く、私は全てを失った。
独身時代の貯金も、買い漁っていたブランドの服、鞄、指輪等の装飾品も全て彼に貢いで...
「金は返さなくて良い。
お前とは二度と会いたくない。
これは手切れ金だ」
優しかったお父さん。
見たことの無い表情で私に言った。
お母さんは無言で私を睨み、兄妹達から見たくもないと言われてしまった。
元主人から接触禁止も言い渡され、私は二度と会うことも、近づく事さえ許されなくなった。
今何をしているか、何処に住んでいるかも分からない。
調べようにも、そんなお金は無い。
「どうしてこんな事に」
駅前に戻り、ファーストフードで頼んだ一番安いコーヒーを前に項垂れる。
こんな馬鹿な話があるの?
『昔の彼に会ったのが間違いだった?』
最初は偶然だったんだよ?
街でたまたま声を掛けられたんだ。
私から連絡をした訳じゃない。
『彼に会うため主人の留守に出掛けた事?』
そんな頻繁に会ってなかった。
主人は出張が多い人だったが、私は殆ど家に居たんだ。
裁判で通い妻呼ばわりされる程じゃなかった。
『不貞行為は3年に及んで悪質?』
仕方ないじゃないか!
だいたい主人が出張ばかりで私を放っといたのが悪いんだ!
レスは離婚理由になる筈だ!
『私が夫婦関係を拒んだ?』
当たり前だろ!
彼との生活に満足していたのに、今さら主人と出来る訳が無かった。
「馬鹿みたい」
どうしようもない後悔が押し寄せる。
『ちゃんと離婚出来たら俺と結婚しよう』
そんな囁きを真に受けてしまった。
不倫がバレると彼は手の平を返し、
『俺は騙されたんだ!
コイツが結婚してるなんて知らなかったんだ!!』
話し合いの場で彼は主人を前に叫んだ。
『メールやラインのやり取りは全て押さえてます。
今さら何を言ってるんですか?』
あの時見た主人の心底呆れた顔は忘れられない。
『今さら金なんか返せねえよ。
慰謝料?取れるもんなら取ってみな』
最後の話し合い、彼は主人に言った。
開き直り、醜い表情は彼が持つ本当の姿だったのだろう。
30過ぎで無職、貯金も無い。
ミュージシャン志望で僅かなギャラしか貰えない男。
そんなのは分かっていた。
『夢を追い続けて素敵ね』
なんて愚かだったの。
高校を卒業する時、進学も就職もせず、将来を全く考えて無いから別れた筈だったのに。
『高い授業料だったと思う事にします』
主人が哀れむ目で私達に言った言葉。
彼は借金こそあっても、貯金なんか無かった。
私が貢いだ金銭は全て遊興費に消えていた。
無職だから差し押さえる資産も無い。
彼は家族からも縁を切られていた。
『うまくやったぜ』
話し合いが終わり、彼は住んでいたアパートで祝杯を上げた。
私は冷めていた。
しかし他に行く所もない私は彼のアパートに転がり込み一緒の生活を送っていたのだ。
近くのスーパーでバイトを始めた。
全く働かない彼と生活するには働くしか無かった。
慣れない仕事、人間関係も上手くいかず生活は苦しかった。
そんな生活が2年過ぎた先日、その時はやって来た。
『矢島俊平ってのはテメエか!?』
『誰ですか?』
深夜、寝ていると突然アパートの扉が開き、大柄な男達が数人入ってきた。
『隠れてんじゃねえ!!』
『ヒッ!!』
いつの間にかトイレに逃げていた彼は男達に引き摺り出された。
スタンドの電気が照らしたのは、身体を震わせて下半身を濡らす彼だった。
『た、助けて下さい』
『手遅れなんだよ!』
彼は男達に土下座をして懇願する。
しかし男達は容赦無く彼を玄関に引き摺って行った。
『こ、この女を差し上げます、ま、まだ、充分に使えますよ』
『は?』
彼の言葉が理解出来なかった。
『馬鹿野郎!
関係ない女を攫えるか!!』
男達は彼を怒鳴りつけながら出ていく。
私は裸足で部屋を飛び出し、アパートの廊下から下を見た。
『た、助けてくれ七奈美!!』
停められていた車の後部座席のドアにしがみつき叫んでいたのが彼を見た最後の姿だった。
やがて彼を押し込んだ車は走り去る。
呆然と見送るしかなかった。
近所の人が警察を呼んだのだろう。
駆けつけた警官から事情を聞かれた。
私はただあった事を話すしか出来なかった。
事情聴取は数日に及んだ。
そして数日後、
『売人?』
『ええ、あと売春の斡旋等ですね』
警察から聞かされたのは私の知らない彼の裏の顔だった...
結局彼は見つからないまま、それっきり。
私は犯罪者に全てを捧げ、養っていただけの事だった。
「痛!!」
突然下腹部に鋭い痛みが走る。
一体どうしたの?
「お客様?」
私の叫び声に店員がやって来る。
なんとかしたいが痛みは増すばかりだ。
「え?」
自分の下半身を見ると、辺り一面真っ赤に染まっている。
「大丈夫ですか!
今救急車を呼びましたから!」
店員の言葉が遠く聞こえる。
(そういえばここ数ヶ月生理が無かったな...)
僅かな意識の下、そんな事を考える。
『...戻りたい次は絶対に間違えないのに...』
ここで意識が途切れた。