第七話
その夜、夢を見た。
50代くらいの年配の男女が泣いている夢だ。
白髪の混じった男はヨレヨレのスーツを着てやつれきった顔をしている。
女のほうはエプロン姿だ。
二人は泣きはらした目で悲しそうにうつむいていた。
……これは、誰だ?
見たこともないはずなのに、なぜか知っている。
そんな気がした。
やがて男は女に手を伸ばし、慰めるように頭をなでると、もう一方の手をこちらに差し伸べてきた。
肌の感触を確かめるかのように頬を撫で、わなわなと唇を震わせている。
「………よ……い」
ゆっくりと口を開いて漏れ出た言葉は、かすれてよく聞き取れなかった。
けれども、頬を撫でるその手はとても安らぎをくれて、聞き取れなかった言葉なんてどうでもいいと思えた。
温かい──。
しばらく。
しばらくはこのままでいたいと思った。
※
「おはよー! 朝ですよー!」
「げふう!」
突然みぞおちに衝撃が走った。
いや、衝撃どころではない。激痛だ。
息ができないほどの激痛が僕を襲った。
気が付けば、カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
そして僕は床の上であおむけになって寝ころんでいた。
昨晩は桜ノ宮さんにベッドを占領されてしまったのでカーペットの上で寝る羽目になってしまったのだけれど、そんな僕に桜ノ宮さんは朝からかかと落としをお見舞いしてくれていたのだ。
「そんなに寝坊助さんだと地蔵になるよ。アッキーノ」
「……じ、地蔵はともかく、ひとついいかな。桜ノ宮さん」
「なに?」
「なんで僕は、朝からかかと落としを食らわされてるんでしょうか……」
しかも今まさにかかとがみぞおちに食い込んでいる真っ最中。早くどけてほしい。
すると桜ノ宮さんは「ふふっ」と笑った。
「アッキーノを起こすにはこれが一番だと思って」
「どこが!?」
むしろ最悪な起こし方だろ!
「だっていつまで経ってもアッキーノ起きてくれないんだもん」
「は?」
「ずーっと寝ててさ。声で起こそうと思っても『あと五分~』とか『もう食べられないよ~』とか言ってて。マジウケる」
「そんなマンガみたいなセリフ言うか!」
言ってたかもしれないけど。
「せっかくこっちは幽霊っぽく『呪い殺してやるぞー』とか『地獄へ落ちろー』とか耳元でささやいてたのにさー」
「陰湿! 起こし方が陰湿!」
そんなんで目が覚めたらトラウマになるわ。
「それよりも、もう大学の講義とか始まってる時間なんじゃない?」
「え?」
言われてベッドの脇にある目覚まし時計を見ると、言葉通りすでに時刻は9時をまわっていた。
「ヤ、ヤバ!」
慌てて桜ノ宮さんの足をどけて飛びあがると、急いでシャツとズボンを脱いだ。
どうやら本当に寝過ごしていたらしい。
「へえ、アッキーノってトランクス派なんだー」
「み、見るなよ!」
脱いだシャツで下半身を隠す。
なにガン見してんだよ。気を使って顔くらい背けろよ。
っていうか、幽霊とはいえ仮にも女の子なんだから「きゃー」とか言えよ。
「さ、桜ノ宮さん。頼むからあっち向いててくれない?」
「はいはい」
桜ノ宮さんが背中を向けたのを見届けて、クローゼットから新しいシャツを取り出し、頭にかぶる。
にしても、なんで寝過ごしたんだろう。
中学・高校と一度も寝坊なんてしたことなかったのに。
これはあれだな、ベッドで眠る桜ノ宮さんが気になって寝付けなかったからだな。
「……まさか本当に寝過ごしてたなんてな。起こしてくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。お礼は高級和牛ステーキでいいよ」
「めちゃくちゃ恩着せがましいな!」
そもそも食べれるのかよ。
「とはいえ、かかと落としもどうかと思うよ」
「あはは、やっぱり? 顔面膝蹴りとどっちにしようか迷ったんだけどねー」
「どっちも怖いわッ!」
ヤバい。ある意味、普通の幽霊より怖い気がする。
いつか寝起きで殺されるかも。
「そんなことより、ほら。早く行かないと。講義遅れるんでしょ?」
「あー、うん……」
目が覚めた時は慌てたけど、冷静に考えれば9時からの講義は今から行っても間に合わないと悟った。となればあきらめるしかない。
あきらめがつけば、自然と心も落ち着いた。
「そうだな。9時からの講義は無理だから次の講義から行くことにするよ」
「お、よゆーだねー」
「別にそんなんじゃないよ」
それに、水無月さんのことも気になる。
昨日、小松奈緒に逃げられてから会っていない。
だから今日は大学に行ったら真っ先に会おうと思っていたのだ。
「水無月さんに昨日のことを報告しないといけないしな」
「顔を見た瞬間、逃げられましたってね」
「う……。ま、まあ、そうだけど……」
「自分ブサメンですいませんでしたって謝らないとね」
「顔で逃げられたわけじゃねえよ!」
朝から桜ノ宮さんは絶好調だった。