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咄嗟に立ち上がった銀次に、甚作は立ち向かった。
「や、やめろっ!」
後退りする銀次を思い切り押した。
「うわーっ!」
銀次は声を上げると、ガサガサと草の音を立てて川に落ちた。
「おらだ。おえい、開けろ」
甚作の声とともに戸が開いた。二人の会話の一部始終を聴いていたおえいは、身震いしながら佇んでいた。
「……心配することはねぇ。皆には、岡っ引は帰ったって伝えるから」
「……死んだの?」
「ああ、たぶんな。川に流されただろ」
「……」
おえいは俯いた。
「械戸に気づかれてしまった以上、殺るしかない」
「……いつから知ってたの?械戸の使い途を」
「今さ。草が倒れてたから。よほどの重いもんじゃなけりゃ、あんな草の倒れかたはしねぇ」
「……みんな、あたいのせいだ」
「そんなことないさ。あの二人がお前のおっかちゃんを殺ったんだろ?」
「うん。……八年前のあの夜、いつものように外に追い出された。客が来たらいつもそうだった。夏は蚊に刺され、冬は寒くて震えてた。
あの夜、時間を潰して戻ってくると、何かが川に落ちる音がした。途端、走り去る二人の男が、月明かりに見えた。
小屋に戻ると、おっかちゃんの姿はなかった。おっかちゃんはあの二人に川に捨てられたんだと思った。けど、二人が誰なのかわからなかった。
おっかちゃんを殺したのがあの二人だと知ったのは七日前だった。あたいの体が目当てでやって来た」
「――な、矢作。どうやって戸を開けさせるべ」
「うまいもんを餌にするべ。温かいもんを持ってくりゃ、匂いに釣られて戸を開けるべ」
「だな。……だが、八年前のことがあるから、気が引けるな」
「あれは、仕方なかったっぺ。女が包丁持って、金くれねぇと女房にばらすって脅したんだべ」
「だな。殺るしかなかった」
「仕方なかったっぺ。なー、伍作」
「……ああ」
「あたいがつんぼだと思ってる二人は、聴かれてるとも知らず、戸口で喋ってた。おっかちゃんを殺した犯人がわかったあたいは、二人を殺す方法を考えた。
殺る二日前、煮物を手土産にやって来た矢作と伍作を中に入れ、唖でないことを話した。二人は驚いていたが、身を守るための知恵だと説明した。
それは嘘じゃなかった。物心がついた頃からおっかちゃんに叩き込まれた」
「おえい、いいか。男の前では馬鹿になれ。その代わり、隙を見せるな。そうしないと母ちゃんみたいにぼろぼろになっちまう。そうならないためにも唖の振りをしろ。男はまともじゃない女を相手にはしない。そんなお前を手込めにする奴が居たら、そいつは畜生だ。殺ったところで、なんのお咎めもないさ。分かったか?自分の身は自分の知恵で守れ」
「おしろいをつけた真っ白い顔に、赤い紅をひいたおっかちゃんは、赤い襦袢の衿を深く抜いて、あたいにそう諭した。おっかちゃんはいつも言ってた」
「お前は、私が惚れた男の子供だよ。お前に万が一のことがあったら、お前のおとっつぁんに叱られるからね」
「おっかちゃんはそう言って、あたいの頭を撫でた。優しい目をして――」
「……」
甚作は、俯いて聴いていた。
「あたいは、男たちにこう言ってやった。二人に抱かれるのは恥ずかしい。だから、一人は暮れ六つ、もう一人は六つ半に来てほしいと。二人は顔を合わせてにやっとすると頷いた。あたいの力じゃ、男を引きずって川に落とすことはできない。だから、甚作さんに械戸を作ってもらった。酒で酔わせれば、ここからなら、突き倒すだけで川に落とすことができる」
おえいは、羽目板にぶら下がった藁縄を見上げた。
「用を足すとこを誰からも見られたくないから、裏側に戸口を作ってほしいと嘘をつかれてな」
「嘘じゃない。それも理由の一つだよ。……甚作さん、あたいに読み書きを教えてくれてありがとう」
「なんだいなんだい、改まって」
「それと、いつも食いもんを持ってきてくれてありがとう」
「どうしたんだい、今頃になって」
「甚作さんに育ててもらったようなもんだね」
「そんなことはないさ、大袈裟だな。女房が居るから、大したことはできなかったが」
「ううん。甚作さんには本当に感謝してる。……それと、おっかちゃんの仇も討ったし。……あたい、江戸に行こうと思う」
「えっ!」
「江戸で働きながら学びたい」
「そうか……。お前は頭がいいもんな」
「そんなことないけど。……甚作さん、最後に本当のことを教えて」
「何をだい?」
「……あたいの、……おとっつぁんでしょ?」
「……」
甚作は無言で目を伏せた。
「やっぱりだ。おとっつぁん!」
おえいは、甚作の胸に飛び込んだ。
「おえい、すまねぇ。おらぁ、矢作や伍作と同じ卑しい人間だ。お前のおっかちゃんの客の一人だった。けど、惚れてた。それは嘘じゃねぇ。だが、女房とも別れることができねぇ臆病もんだ――」
「もういい。おとっつぁんが甚作さんだとわかっただけでいい。それだけでいい。それだけでうれしい」
「……おえい」
村からまた二人消えた。村人は口々に言った。「また、神隠しにあったんじゃろか」と。
完