7.記憶
小さな悪魔はあたらしい躰が気にいりました。
若すぎず、年寄りすぎず、小さすぎず、大きすぎず。
何もかもが、小さな悪魔の好みにぴったりだったのです。
この躰の男は金持ちなので働いていません。いつも家にいて、本を読んだり、庭を散歩するだけです。小さな悪魔は、そんな退屈な毎日は大嫌いです。だから、街に遊びにでかけます。カジノに行って大金を賭けると、まわりに人間が集まります。酒や食事をふるまってやると、もっと人間が集まります。いろんなお店に出入りしました。そこで毎夜、にぎやかに朝まで遊ぶのです。
東の空がしらむころ、小さな悪魔は男の家に戻ります。お酒でふわふわした足どりで、いつもの部屋に入ります。男のたったひとつ大切にしていたあの部屋です。
真っ白なシーツに寝転んで目を瞑ると、男の記憶が躰からしみ出てきます。その記憶はやわらかな声になって、小さな悪魔を歌でつつむのです。
――幸せになるのよ、私のかわいい坊や。幸せになるのよ。
小さな悪魔は、男の記憶を見つめます。その記憶の中の男の母親は、いつでも笑って小さな悪魔を見つめ返します。
小さな悪魔は苦痛でたまりませんでした。眠ろうとするたびに、この記憶が出てきてじゃまするのです。いったいいつまで、この躰は母親の記憶にとらわれているのでしょう?
小さな悪魔は、腹が立ってなりませんでした。
それなのに、悪魔の彼であってもどうしようもできないのです。だってもう、この母親の魂も、男の魂も、この世にはいないのです。
小さな悪魔は考えました。彼はこの躰が気にいっているのです。こんなことくらいでこの躰を捨ててしまうのは嫌でした。だから真剣に考えました。遊びにもいかずに考えました。
小さな悪魔は、小さな酒場で女をひとり見つけました。男の母親に似た女です。小さな悪魔は、女を家につれて帰りいっしょにくらし始めました。
小さな悪魔の思ったとおり、女は、男の記憶の中の母親と同じことをします。毎日料理をして、掃除をします。小さな悪魔を「愛しているわ」と抱きしめます。小さな悪魔が火を通したものを食べないと、涙を流して心配します。小さな悪魔が部屋を汚すと、またいちから掃除を始めます。
小さな悪魔はこの女が大嫌いでした。
「あなたに幸せになってほしいの」
女は言います。男の母親のように。
「あなたの幸せのために、私はもっとつくすから」
どうか私を捨てないで。
そう、女は言うのです。
小さな悪魔はじっと我慢をしています。
もう少し。もう少しです。
小さな悪魔が待ちこがれていた日が来ました。
あの白いシーツのベッドで眠る小さな悪魔をのぞき込み、「幸せにおなり、かわいい坊や」と歌う記憶は、もう母親の顔をしていません。それはこの隣に眠る女の顔をしています。
小さな悪魔はにっこりしました。
小さな悪魔は起きあがり、女の首をしめました。
目を見ひらいた女は、「どうして?」と尋ねました。
「愛を乞われるのはもうたくさんだ」
小さな悪魔は答えます。
「あんなに愛してあげたのに」
女は消えいりそうな声でつぶやきます。
「お前は愛を欲しがるだけだった」
小さな悪魔は言いました。
嫌だと言うのに食べろと言い。そのままにしておけと言ってもかたづけて。
「あなたのため」「あなたのため」
もううんざりだったのです。
小さな悪魔は指にぐっと力をこめました。
女は涙をひとすじ流して息たえました。もう、何も言いません。
小さな悪魔はその晩安心して眠りました。母親の記憶はかき消えています。誰も彼の眠りを邪魔したりしません。
でも、そう思えたのは束の間でした。女の魂が、天国にも地獄にも行かないのです。小さな悪魔が眠りにつこうとするたびに、「幸せになって、あなた」と祈るのです。昼も夜もおかまいなしです。
小さな悪魔はすっかり疲れきっています。
このしつこい女の魂をどうしたら追い払えるのでしょう……。
小さな悪魔はため息をつきました。
「しかたがない」
とうとう、彼はあきらめました。白いシーツの上に横たわり、そばのカーテンにろうそくで火をつけました。
カーテンも、ベッドも、この部屋もみるみるうちに焔につつまれていきます。真っ赤に燃えたぎる焔の中、女の魂が男の躯を抱きしめます。やっと欲しい男を手に入れて、女の魂は嬉しそうに笑っています。女の魂は男の躯を抱いて、地獄へとびはねて行きました。
この躰は呪われていたんだ。
男の躰からぬけ出た小さな悪魔はそうつぶやいて、もう一度、ため息をつきました。