5.正義
小さな悪魔はしげしげと女を眺めていました。
なぜ、この女に自分が悪魔だと知られてしまったのか、気になってしかたがなかったのです。
男はこの女の姉でもある貧しい女とつきあっていた時、その妹と会ったことはなかったはずです。それなのに、なぜ?
女は小さな部屋の小さなベッドにこしかけて、頭をかかえこんでふるえています。彼女にはすぐ横にいる小さな悪魔の姿は見えません。
男を殺してしまった女は、警察に自首するつもりでした。それなのに、とつぜん頭にひびいてきた声にしたがって、こうしてにげ帰ってしまったのです。
なんと罪ぶかいことでしょう!
女は後悔にさいなまれ、泣きぬれていました。男を殺したことを後悔しているのではありません。こうして逃げ出してしまったことをです。
女のそんなようすを、小さな悪魔はじっと観察していました。
「どうしてそんなふうに泣くの?」
小さな悪魔は女に尋ねました。
女は顔をおおったまま、答えました。
「わたしは罪をおかしてしまったもの」
姉の捧げた愛を裏切り破滅させた男。その男は、姉があんな無惨な死に方をしても、涙ひとつ流すわけでもなく、お葬式にさえこなかった。
恋に狂い、恋に敗れたゆえの死であるのなら、しかたがない。
女はそう自分に言い聞かせ、姉の死をあきらめようとしていました。ところがひょんなことから知ってしまったのです。
男が完成する見こみのない新薬を作り、その薬を切望する患者の家族や世間の人々を騙し、お金もうけをしていることを。
女は、男とつきあっていたころの姉のことを思い出しました。
熱にうかされたように恋におぼれているのに、日に日にやつれ、みすぼらしくなっていった姉の姿を。
女は確信しました。姉もまた、初めからこの男に騙され、利用されていたにちがいないと。
女は真実を知りたくて、男の会社に行ったのでした。
そして、会社の前で、希望をうばわれた多くの人々が嘆き悲しむ姿を、はなれた場所からうすら笑いをうかべて見ていた男をみつけ、殺してしまったのです。
この男は人間じゃない。
恐怖が女をつき動かしていました。自分の手に人の躰の弾力を感じ、たおれた男から流れる赤い血を見た時、女は我に返りました。
人を裁いて良いのは神さまだけ。自分もまた、裁かれなければならない罪人になってしまった。
それなのに、逃げ出すなんて……。
女は自分のふがいなさを、さめざめと嘆いているのです。
小さな悪魔は、そんな女をしげしげと眺めます。
女の考えは、悪魔にはまったく理解できません。でも確かに、女には、男が人間ではなく悪魔だとわかったのです。
人間の姿をしていたのに、どうして?
小さな悪魔は、女の心のうちを聞いて、ますます不思議に思いました。
この女にますます興味がわいてきました。
小さな悪魔は言いました。
「あんな男、死んで当然じゃないか。あいつのせいできみの姉さんは死んだんだ。それなのに神さまは、あいつを罰してくれなかったじゃないか。きみは神さまのかわりに正しいことをしたんだよ」
女は顔を上げてつぶやきました。
「正しいこと?」
「そうだよ。きみは正義をまっとうしただけだ」
小さな悪魔は、女の心の奥底にある声をくみとってしゃべりました。本当は彼にも、何が正しいことかなんて、わからなかったのですが。女の心は、本当は誰かにこう言ってもらいたがっていたからです。
悪魔の言葉に、女は開きなおりました。そしてそれからは、自分の正しいと思うことをおこなうようになりました。
優しくて、おもいやり深い女は、厳しくて、意地悪な女になりました。本当はこの女だって、他人の失敗を笑って許して、そのしりぬぐいをしてあげることが、嫌だったのです。自分ひとりに残業を押しつけて、着かざって遊びにいく同僚たちがうらやましかったのです。自分に意地悪をする連中に怒るのは大人げないとやりすごすより、思いきりしかえしをしてやりたかったのです。
自分の正義を通す女は、いつしか男ににていました。相手に自分への服従を要求し、思い通りにならないと怒ります。
小さな悪魔は、そんな女をじっと眺めています。
ある日、女のもとへ警察が来ました。女の住む社会の正義が、女の罪をかぎつけたのです。
女は逃げ出しました。なぜ自分が罪にとわれるのか、わからなかったのです。
正しいことをしたのに!
この社会がまちがっているのだ、と女は姉の死んでいた公園の樹で首を吊りました。こんなまちがった社会なんか、自分からすててやる、と。
怒り狂った女の魂がこの躰からぬけた時、小さな悪魔は、するりと女の躰に入りこみ、躰を樹からおろします。
やれやれ、次は気づかれないようにしなくては。
赤い痕の残る首すじをさすりながら、小さな悪魔は、ほっと息をつきました。