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49.憧憬

 結局、小さな悪魔はこの躰を捨てることにしました。もう、どうでもよくなってしまったのです。家も、学校も面白いことは何もない。この躰の男の子に無関心だった母親や父親に嫌がらせしたところで、楽しいとも思えないだろう。大きな悪魔もいなくなったので、義理もなにもありません。それになによりも――


 この躰の胸の中から取り出して握りつぶしたはずの鉛の箱が、また育ってきたのです。そのうえ箱の鉛が肌に染み出て皮膚を浸蝕し始めています。胸そして背中、腕へと広がった鉛がどんどん皮膚を被ってきているのです。重くて重くてたまりません。

 小さな悪魔は何度も何度も胸から鉛の箱を取り出しては捨てました。だけどそれは、捨てても捨ててもすぐに生まれて(らち)が明きませんでした。


 この躰はもうダメだ。元の持ち主は、この躰がこんな欠陥品だったから悪魔になって解放されたかったのかもしれない。


 小さな悪魔はこんな躰に辟易(へきえき)してしまいました。


 そうだ、どうせ捨てるなら――



 小さな悪魔は、鉛の箱に入っていた記憶の場所に行きました。

 折しも季節は記憶の場面と同じです。みかん色の街灯に照らされた薄紅色の花盛り。背景は吸い込まれそうな黒い夜空。賑やかな声がそこいらじゅうから聴こえます。多くの人であふれかえる夜道を進み、小さな悪魔は一本の樹の前で立ち止まりました。


 シュルシュル、と小さな悪魔は張り出した枝に縄をかけました。今まさに首をくくろうとしていても、周りの人間たちは誰も気に掛けません。気づきもしません。この躰の家族のように、小さな悪魔のすることなんて目に入らないのでしょう。

 完全に躰を捨ててしまう前に、小さな悪魔はもう一度だけ辺りをじっくりと眺めました。頭上には薄紅色で彩られた大枝があります。この枝の下でこの男の子の家族がいつか写真を撮っていた。楽しそうな笑い声が、記憶の中の家族の声に重なって聞こえます。心臓にある鉛の箱がよりいっそう大きく重く感じられます。この重みで、この躰はすぐにこと切れるだろう。


 小さな悪魔は薄らと笑って呟きました。

 

「よかったね、ほら望み通りここに立つことができたじゃないか」


 ひゅっ、と小さな悪魔は躰を突き放して離れました。小さな悪魔の目に、ぶらりと下がった屍は嬉しそうにすら見えました。




 それからしばらくの間、小さな悪魔はこの男の子の家に居続けました。父親と母親の様子を眺めていたのです。捨てた躰に未練はないものの、この躰で人間の生を楽しむことができなかったのが、なんだか負けたようで悔しく感じられたからです。この子ども()を大事に扱わなかった父親と母親に、やはり仕返しするべきだったと思い返したのです。


 けれど――

 子どもに無関心だったはずの父親と母親は、小さな悪魔が考えたよりもずっと、彼の死を悲しんでいました。


「責任感の強い子だったから、弟を死を自分のせいだと思って、自分を責めてしまったのだね」

 父親が声を詰まらせて言っています。

「自分に厳しい子だったもの。不甲斐ない私たちを軽蔑していると思っていたの。それがようやく、受け入れてくれるようになったと思ったのに……」

 母親も、泣き疲れて掠れた声で語っています。

「僕の仕事も落ち着いて、楽しい団らんを持てるようになったところだったのに――」

「あの子のいる食卓は楽しかったわ」


 この二人が語るのは、元の躰の男の子の思い出ではありません。小さな悪魔のことばかりです。


 小さな悪魔は狐につままれた気分でした。


 この親は、自分たちがしたことを、子どもがしたことのように言っています。自分たちが子どもに無関心だったくせに、子どもの方が避けていたと言うのです。腫れ物に触るように機嫌を取るだけだったくせに、それを子どもに馬鹿にした態度をとられていたからだと言うのです。


 そのくせ、小さな悪魔のその場しのぎの嘘やおべっかを真に受けて、ようやく反抗期を終えて大人になってくれた、これからは楽しくやれるはずだったのに、と懐かしんでいる。


 この親は自分の子どもなんて見ていない。理想の子どもを夢見ているだけ。


 小さな悪魔は思いました。


 いくら理想の子どもになってみせたところで、親の方は理想の親になってはくれない。人間の幸せをくれはしない。初めから、自分自身の幸せにしか目を向けていないのだから。


 ただ人間になって、人間の仲間に入っても、人間の幸せは手に入らないのかもしれない。


 小さな悪魔は、なんだか嫌な気分で腕組みをし、頭を傾げてしまいました。


 


 

 

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