47.理想 後編
小さな悪魔は、大きな悪魔に言われたことをじっくりと考えました。それから改めて、自分の部屋を眺めまわしました。
どこもかしこも男の子がいたころのまま、きちょうめんに整えられています。こんな部屋、ちっとも自分らしくありません。小さな悪魔は、自分でもちょっと驚きました。
そういえば――、悪魔になりたいと言った男の子の躰を自分だけのものにしてから、小さな悪魔はいつもぐったりと疲れていました。そのせいで自分らしくすることを忘れていたようです。早く人間たちに馴染もうと焦っていたのかもしれません。
もっと楽しい気分になれるように、自分らしさを出さなくちゃ。
小さな悪魔はこぶしを握りしめました。
手始めに、壁に飾ってあるいくつもの賞状の額縁を叩き割りました。壁の本だなをひっくり返しました。丁寧にたたまれてしまってあった衣類を放り投げました。これで少しは自分らしくなったかな、と小さな悪魔はにっこりして大きな悪魔をうかがいます。大きな悪魔は視線を返して、ゲーム機を握っていた親指をぐっと立ててくれました。
そこから先は、すっかりうまくいきました。小さな悪魔は自分らしさを取り戻しました。
そうです。人間たちに気に入られるようにがんばる必要なんてなかったのです。小さな悪魔がこれまでしてきたように、人間たちの欲望をこっそり叶えてやればいいのです。
みんなが満足いくように平等にしなければ、と奮闘していたのが間違いのもとでした。
「ないしょだよ。きみだけを特別にしてあげるんだよ」
そうささやけばよかったのです。それだけで、これまで当たり前に小さな悪魔を利用するだけだった人間も、ちゃんと小さな悪魔の言うことを聴いてくれるようになりました。
人間は、自分だけが特別でなければ気にくわないのです。
悪魔になった男の子がいじめっ子を追いだしてから、平和で退屈になった学校は、また賑やかさを取り戻しました。子どもたち誰もが、自分は特別なのだ、といばりちらし競い合うようになったのです。
小さな悪魔はあの男の子のように喧嘩やいじめを止めたりしません。素知らぬ顔をして、高みの見物をきめこんでいます。
だって、どの子が一番強い子になるか、大きな悪魔と賭けをしているのです。そして勝負がついたらまた初めから。今度はその子をやっつける新しい駒を育てます。
大きな悪魔の言う通り。
殴り合って自分が一番強い子になるよりも、誰かの耳許でささやいて闘わせ、それを眺めている方がずっと悪魔らしい。きっとそれも、自分一人だとつまらない、と思ったことでしょう。けれどここには大きな悪魔がいるのです。大きな悪魔といっしょに、人間たちを楽しむことができるのです。
小さな悪魔はたいへん満足していました。
だけどその楽しみも長くは持ちませんでした。学校にたくさんいた子どもたちが、一人減り、二人減り……。ケンカで入院したり、死んだり自殺したり、こんなにも荒れた学校を恐れた大多数が転校してしまったりで――、すっかりいなくなってしまったのです。
「せっかく楽しかったのに……」
小さな悪魔は残念そうにため息をもらします。
「こんなもんさ。人間ってのはすぐに壊れちまうからな」
大きな悪魔はもうどうでもよさそうです。空を見上げ、それから小さな悪魔をちらりと横目で見やると、「そろそろお開きにするか。きみの人間臭さも多少は抜けたみたいだしな」と薄ら笑いを浮かべ、弾力をつけてトンッと跳ね上がりました。
「え――」
「じゃあな、小さいの!」
小さな悪魔が瞬きする間もなく、大きな悪魔は消えていました。
大きな悪魔がいなくなって、小さな悪魔は、久しぶりに家での夕食の席に顔を出すことにしました。
小さな悪魔は弟に優しくしています。母親の言うことには「はい」「はい」と素直に返事をします。父親の言いつけを守って優秀な成績をとっています。もう元の身体の男の子のように、誰かを裁くような言葉も慎んでいます。
だから関係は良好。
だけど小さな悪魔は、この家族が好きではありません。関心もありません。だからできるだけ、顔を合わせるのを避けていたのです。
でも、そろそろ関係性を変える時がきたようです。
大きな悪魔がいなくなった瞬間、小さな悪魔の頭の中にはみかん色に照らされた薄紅色の花がいっぱいに広がっていました。灯りの届かないまっ黒な暗闇に小さな悪魔はぽつりと立ちすくんでいました。鉛でできた銅像のように――。
これは、この躰の記憶じゃないか。僕じゃない。
小さな悪魔はいらだちました。そして、もっと自分らしくなるように、この男の子の記憶を塗り替えねば――と決めたのです。
見捨てられたのはあの男の子であって、小さな悪魔じゃないのだから――。




