46.理想 中編
その日の夕ご飯の時間、小さな悪魔は初めて家族のいる食卓につきました。この躰の持ち主が出て行ってからというもの、小さな悪魔は、「お腹が空いていないから」「試験前だから」と理由をつけて、家族といっしょの食事を避けていたのです。
自分の席に座って、小さな悪魔はとっくりと、母親、父親、弟の顔を眺めまわしました。今まで薄らとした靄のようだった彼らが、くっきりと見えます。何の変哲もない普通の人間です。それがどうして靄だったのか、そっちの方が不思議なくらい平凡な人間です。
けれど彼らを眺めているうちに、小さな悪魔のお腹の辺りがフツフツとしてきました。
この躰の男の子だけをのけ者にしていたこの家族は、小さな悪魔の知っているどんな家族とも違います。確かに小さな悪魔のことを嫌った母親もこれまでにはいました。でもそれは、この躰にいるのが人間の魂ではなく、小さな悪魔だと知られてしまったからでした。
この家族は違います。この躰の男の子のことを疎ましく思っているのです。だから男の子の方も、彼らの事を靄のように認識していたのです。
どうしてなんだろう?
小さな悪魔はゆるりと首を傾げました。
「あ!」、という悲鳴とともにカシャンと音がしました。小さな弟が水の入ったグラスを倒したのです。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
弟のおびえた瞳が、まっすぐに向かいに座る小さな悪魔に注がれています。
父親と母親も顔を強張らせて小さな悪魔を見ています。粗相をした弟ではなく――。
「だいじょうぶ、ぬれなかった?」
小さな悪魔は薄ら笑いを浮かべて立ちあがると、弟のこぼした水を自分のナフキンで拭いてあげました。弟はびっくり眼で小さな悪魔を見つめました。父親も、母親もです。あんぐりと口を開けたまま声も出ないようです。
ああ、そうか――。
小さな悪魔はひとり納得してにっこりしました。
小さな悪魔を呼ぶまで、この躰の男の子はこんなささいなことにも腹を立てて非難していたのを、記憶の中に見つけたのです。
こんなことがあると……、
――気をつけろ、っていつも言ってるだろ! どうしてそうお行儀が悪いんだ? ほんと、ダメなやつだな。いつになったらちゃんとできるんだろうね! 僕が手取り足取り世話してあげなきゃ、みんな、ゆっくり食事もできないじゃないか! お前だって、もう赤ちゃんじゃないはずなのにさ!
きっと、この男の子なら、これくらいのことはまくしたてたでしょう。
男の子は、いつもいい子でいようとしていました。だから、彼のいい子の基準から外れることを許すことができませんでした。弟が幼い子どもであっても、食事中にグラスをひっくり返すなんてことは言語道断なのです。
ふふっ――。
小さな悪魔は肩を震わせて笑いました。
あの男の子は、先生や友達に愛想をつかして悪魔になりたい、と言ったんじゃない。本当は、こんな自分に嫌気がさしたに違いありません。
こんなの、家族に疎まれるのも当たり前じゃないか。僕だって嫌だよ――。
小さな悪魔は思いました。
家のなかに正義を振りかざす裁判官がいるなんて、誰だって嫌に決まっています。
「お父さん、お母さん、僕はいい子になろうと頑張りすぎて、ちょっと、いや、たくさん、みんなに厳しくしすぎたんじゃないかって反省してるんだ」
小さな悪魔のそんな言葉に父親と母親は驚いて、それから互いに確かめ合うように顔を見合わせました。そしてうなずき合うと、ほっとしたように肩を下ろし微笑みました。
「お前がそのことに気づいてくれて、お父さんも、お母さんも嬉しいよ」
父親が言いました。母親はその横でにこにこと頷いています。
「いい子になるのも大切だけど、本当は、僕は楽しいことが好きなんだ。怒ってばかりじゃ、楽しい気分になれないものね」
小さな悪魔は言いました。
それからあとは、家族でテーブルを囲んで面白おかしいおしゃべりをしました。父親も母親も弟も、こんな楽しい男の子の一面はまるで知らなかったので、とても興奮して喜びました。
そのせいでしょうか。小さな悪魔が温かな食事をつつくだけでほとんど口にしなかったことを、気にすることもありませんでした。
「やっぱり、もうしばらくこの躰を使うことにするよ」
自分の部屋に戻った小さな悪魔は、ベッドに寝転がって携帯ゲームをしている大きな悪魔に言いました。
「だろ? くだらない人間なんかにしてやられて退散するんじゃ、俺が来てやったかいがないからな」
ゲーム機をピコピコ動かしながら、大きな悪魔が答えます。
「その人間の躰に染みついてる“いい子になりたい”願望を、きみが無意識に叶えてやろうとしていたのが失敗の原因さ。ありのままのきみなら、人間たちとだって上手くやっていけるさ」
「ありのままの僕?」小さな悪魔はきょとんと首を傾げます。
「そうさ。ありのままのきみ。なんたって俺たちは、人間なんかよりよっぽど上等な悪魔なんだからな。人間の躰にいるからって、下等な人間のマネをする必要はないだろ」
ようやく頭を反らして顔を向けた大きな悪魔は、大きな目を三日月のように細めて、にっと微笑んで言いました。




