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45.理想 前編

「おやおや、人間の仲間になりたいなんて言ってたのが、飽きちまったのかい?」


 ああ、やっぱりです。見上げた小さな悪魔の頭の上、おでことおでこがくっつきそうな位置に、大きな悪魔がにったり笑っていました。

 小さな悪魔は驚いてのけぞり、おもわず手をかけていた金網を放しかけ、あわてて掴み直しました。そうです。小さな悪魔は今まさに、学校の屋上の金網を乗り越えて、この躰を捨てようとしていたのでした。


「まぁ、まぁ、小さいの、ちょっと待てって」


 大きな悪魔は小さな悪魔の両肩に手をかけると、ポーンととんぼ返りをうってコンクリートの屋上に降りたちました。そこで小さな悪魔も、ガシャガシャと金網を揺すってこの重たい人間の躰を床の上に下ろしました。


「ここはだめなんだ。せっかく協力してくれたのにね、ここは、楽しめる場所じゃないようだよ」

「だからって、その躰あっさり捨てちまうってんじゃ、手伝ってやった俺がばかみたいだろ」


 確かに大きな悪魔の言う通りです。小さな悪魔が人間と仲良くなれるように、大きな悪魔はあんなに助けてくれたのですから。

 

 でも、もう、こんなところにいたくはないのです。ここの人間は嫌なのです。


 小さな悪魔は、どうしよう、と小首を傾げて大きな悪魔を見つめました。


「それなら、その躰の飼い主を操って、もっときみに相応しい場所へ移ればいいじゃないか」大きな悪魔は事もなげに言い放ちました。「なんだかきみ、これまで以上にふぬけてるな。――助けてやるよ、今度もさ」大きな悪魔は腕組みした肩を震わせて笑いながら言いました。


 本当に、こんな簡単なことも思いつかないほど、周りのつまらない人間たちのことが嫌で嫌でたまらなかったのかと、ようやく気づいた小さな悪魔は「ありがとう、助かるよ」と、少し恥ずかしい気持ちで答えました。

 それから、「だけど、問題があるんだ」と顔をしかめて言い足しました。






 小さな悪魔は大きな悪魔と連れ立って、この躰の家に帰りました。

 玄関を開けると、「おかえりなさい」と母親の声がします。小さな悪魔は、いつものように「ただいま」と言い、二階にある自分の部屋へ上がっていきます。しばらくすると、母親がおやつを持って来てくれました。「ありがとう」と言って受け取り、母親が「勉強がんばってね」と返すと、これで一日の家族の会話は終わりです。

 ああ、夕食時にはもう少し何かしゃべるかもしれません。小さな悪魔は食事中はこの躰から出ていたので知りません。だけど男の子の記憶に残っていないのだから、大した会話なんてなかったことでしょう。


 男の子の心は長い間、学校のこと、先生や、友達、いじめっ子のことで占められていました。父親のことも、母親のことも、小さな弟のことも考えることはありませんでした。


 だからでしょうか、小さな悪魔の目には、この母親や父親、そして弟の姿が薄い(もや)のように見えるのです。こんな見えるか見えないかもはっきりしない(もや)では、なんだか上手く操れないような気がします。




「なるほどな、そりゃ大した問題だ!」大きな悪魔は、クックッと笑いながら言いました。「それはな、きみがここを開けて中身を見ていないからさ。それを見ればその変な呪いは解けるよ!」


 大きな悪魔の長い指先が、小さな悪魔の胸をトントンと叩きます。小さな悪魔は、えっ、と不思議そうな顔をして自分の心臓を目を凝らして眺め、それからずぶずぶと自分の手を胸の中へ突っ込みました。

 

 そうして心臓から引き出された(こぶし)には、小さな鉛色の箱が握られていました。小さな悪魔の小さな(こぶし)はその重さに耐えられなくてぶるぶる震えています。


「貸してみろ」

 大きな悪魔は、大きな手のひらにその小箱を握ると、レモンでも握るかのようにぎゅっと力を入れました。やがて手の内からどろりと粘度のある血の色をした液体が一滴、滴り落ちてきました。すかさず反対の手で受けとめたそれを、大きな悪魔は小さな悪魔の額に塗りつけました。




 小さな悪魔の頭の中に、みかん色の街灯に照らされた薄紅色の花がいっぱいに広がりました。その向こうにはまっ黒い夜空。賑やかな声がそこいらじゅうから聴こえます。膝の上には四角い箱に入ったお弁当。手にはジュースの紙コップ。けれどこの目が見ているのは、腰を下ろしている縞模様のシートの上ではなくてもう少し向こう側です。そう、花盛りの樹の下の。


 父親、母親、弟――。


 彼らの写真を撮っている、知らない誰か。何枚も、何枚も家族写真を撮っている。だけど、誰も男の子のことを呼びません。声もかけません。


 この景色を見ている小さな悪魔は、皮膚が鉛で覆われていくような気分でした。




「いい子にしていれば、仲間に入れてもらえるはずなのに……」


 パチン、と指を弾く音で我に返った小さな悪魔は、そんなことを呟いていました。



   


 

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