43.願い 後編
男の子は今日もいじめっ子を殴っています。殴られる前に殴っています。悪魔になった男の子はとても強くて、けんかに負けることはありません。
いじめっ子はどうして、いつもいつも誰かを殴るのでしょう?
そのことが、ずっと男の子は疑問でした。悪魔になるまでは、どんなに考えてもわからなかったことが、今はわかります。
誰かを殴りつける時、ぶわーと自分が大きくなるような気がするのです。この世の中で一番強いのは自分だ、という気になるのです。それはとても自由で爽快な感覚でした。一方的に殴られていた時には思いもしなかった感覚です。
今は、男の子はいじめっ子の気持ちがわかります。だから、いじめっ子にいじめをやめろなんて言いません。一方的に殴るだけです。抵抗なんて許しません。きっと、いじめっ子は自分がなぜこんなめにあうのか、不思議に思ったりはしないでしょう。いつか、すきをついてやっつけてやる、とそんな憎々し気な眼つきで男の子を見るだけです。でも、そんな日は来ない。だって男の子は悪魔ですから。この世の誰よりも強いのですから。
男の子は楽しくてたまりません。
男の子は先生方からも学びました。自分がやりたくない面倒ごとは、まじめな善意の誰かにやらせればいいのです。そうすれば、自分は嫌な苦労も、嫌な想いも抱えずにすみます。
男の子は悪魔のように優しく囁く術を、小さな悪魔から教わりました。
「きみはいつもみんなのことを考えてくれるもの」
「みんなが助かるんだよ」
「ああ、きみは本当に優しいね」
いつも自分が言われてきたことを、囁けばいいのです。――他の誰かに。
男の子は自分に重く圧し掛かっていたものを下ろす術を、ようやく手に入れました。――悪魔になることで。
男の子は幸せでした。この世の中にそった正しい生き方ができているのだ、と誇らしい思いでした。
小さな悪魔は不思議な気持ちがしていました。彼はずっと人間になりたくて仕方がなかったのです。だけどこの人間は、人間でいるのは嫌で悪魔になりたいと言い、悪魔になって満足だと言うのです。これでは小さな悪魔と反対です。お互いの役割を交換するのはもってこいに違いありません。
ある日、小さな悪魔は言いました。
「だからそろそろ、きみの躰をもらってもいいんだけどね。僕は、しばらくこのままでもいいかな、って気もしてるんだ。だって、きみはすっかり僕になったし、僕は、そんなきみの一番の理解者だからね」
けれど、小さな悪魔は本当は、男の子が悪魔でいることにずっと満足していられるか、首をひねっているのです。小さな悪魔には、この男の子の満足や喜びは、とてもつまらないものに見えるのです。
もしかすると、今まで小さな悪魔の知らなかった、悪魔としての楽しみを、この男の子は見つけているのかもしれません。それとも、まだ人間の心が残っているから、こんな遊びを面白がっているのでしょうか?
小さな悪魔は男の子の背中越しに、子どもたち、大人たちを眺めます。敏感な子どもたちは、ここに悪魔がいることに気づいているようです。小さな悪魔の大嫌いな、おびえた、卑屈な眼つきで男の子をちらちらと盗み見ています。大人たちはいつもと変わらず傲慢で、えらそうな顔をしていばっています。どちらもいっしょに何かを楽しめるような相手ではありません。
でも、男の子はそれがいいと言うのです。
「僕を利用するだけの連中なんていらない。優しさにつけ込んでくる卑怯者も、思いやりを要求してくる弱虫も、まとわりつかれなくなってせいせいする。僕はやっと自由になれたんだ」
男の子は心からそう思っているようです。
しばらくすると、男の子の環境はずいぶん変わっていきました。ここには、いじめっ子はもういません。男の子がやっつけてしまったからです。ずるい先生は、男の子にもうかまいません。男の子は、先生の思い通りに「はい」と言わなくなったからです。だから、毎日は平凡で淡々としたつまらないものになりました。
だけど男の子は相変わらず、こんな日常に満足しています。
「退屈じゃないの?」小さな悪魔は尋ねます。
「ぜんぜん。煩わされなくて最高!」男の子は答えます。
小さな悪魔は小さなため息をつきました。
どうやらこの男の子は、ひとりぼっちがちっとも嫌じゃないのです。それどころか、ひとりぼっちを望んでいるのです。他人に支配され振り回されるくらいなら、ひとりでいる方がずっといい。そんな揺るぎない信念が青い炎になって心臓を包んでいるのです。
「きみの願いは成就したね」
小さな悪魔は言いました。そして、この男の子の魂をこの躰から追いだしました。
男の子の魂は、青い炎の揺れる陽炎のような悪魔になりました。
「世話になったね、ありがとう」
悪魔になった男の子は言いました。
「これからどうするの?」
「さぁ、なるようになるよ」
男の子は笑っています。そして「じゃあね」と飛びたっていきました。
小さな悪魔は、その姿をただぼんやりと見送っています。




