42.願い 前編
「僕は悪魔になりたい!」
ある日、公園の木の枝に座る小さな悪魔の耳に、そんな声が届きました。
「その願い、叶えてあげようか?」
小さな悪魔は、瞬時にその声の主の男の子の前に立って尋ねました。でも、男の子には小さな悪魔の姿は見えていないようです。
「悪魔になれるならなんだってするのに!」と、独り言を続けます。
「どうしてきみは悪魔になりたいの?」小さな悪魔はききました。
「だって……」男の子はぷうっとふくれっ面をして言いました。
「僕は、まじめで、優しい、いい子なのに、この美徳で得をしたことがないんだ。いい思いをしてるのは、ずるくて、乱暴で、意地悪な、悪いやつらばかりなんだ。僕はもう、そんなやつらにしてやられるのは嫌なんだよ」
ぽろぽろと涙が男の子の頬を伝います。これまで味わってきた、みじめで、悔しい記憶が走馬灯のようにかけめぐっているのです。
小さな悪魔は、この鮮明でずしりと重たい記憶に目を凝らします。
男の子は、学校でいじめっ子に立ち向かっていました。その子が他の子を殴るのを必死で止めていました。男の子は、いじめっ子にしたたかに殴られました。
先生はこう言いました。
「きみだってあの子にきつい言葉で言い返したじゃないか。けんか両成敗だよ。謝りなさい」
けんかなんてしていません。一方的に殴られているのに、何も言い返してはいけないのでしょうか?
男の子は納得できませんでした。
それから、こんなこともありました。
「きみは年齢相応に発達して道徳も身に着けている。だけどあの子たちは、幼稚園児と変わらない。きみは大人だけど彼らは子どもだ。だから、きみが我慢してあげてくれ」
頭は幼稚園児でも、身体はずっと大きくて力だって強いのです。当然、殴られれば痛いのです。幼稚園児に殴られるのとはわけが違います。それに、同じクラスなのに、どうして彼は大人で他の子は子どもだなんて分けられるのでしょう? どうして彼ひとりが我慢しなければならないのでしょう?
男の子はまったく納得できませんでした。
男の子は、先生の言うことや、いつまでも幼稚なクラスメイトのことを理解したいと頑張りました。でも、どうしたってわからないのです。罵詈雑言を浴びせながら殴りかかってくる相手に我慢して、自分が謝らなければならない理由が――。
でも、ようやく彼にもその理由がわかりました。
男の子が、先生に、「こんな学校はもう嫌だ」といった時、先生は彼のことを「いじめに負ける弱い子」と言ったのです。
弱い子はだめで、強い子が正解なんだ――。だから先生は、いじめっ子をひいきするんだ。
男の子は悟りました。そして呟いたのです。
「僕は、悪魔になればいいんだ」と。
「この世の中は悪いやつの方が強くて、得をするようにできてるんだ。先生の言いたいのはそういうことだ」
小さな悪魔は言いました。
「きみがその躰を僕にくれるなら、きみを悪魔にしてあげるよ」
男の子は小さな悪魔と契約しました。小さな悪魔は、今回も男の子と躰を共有することにしました。それは、男の子が悪魔になる、といえなくもありませんから。
小さな悪魔は、男の子にささやきました。
「殴られたら殴り返せばいいんだ。我慢なんてしなくていいんだよ」
「このクラスでは、きみだけが大人なんだろ、子どもは、厳しく躾けないとね」
「でも、ちょっとしたコツがあるんだよ」
殴っているところを大人に見られないこと。怒られても、やってないと嘘をつき通すこと。そして、これが一番肝心です。相手がやり返そうと思わなくなるまで、徹底的に痛めつけること。
男の子の持っていた優しさや思いやりは、邪魔でした。でも、そんなものはこれまでだって、彼を助けてはくれませんでした。せいぜい、横着な本当の大人たちに利用されるだけでした。先生たちは、自分がいじめっ子を怒ることをせずに、めんどうなことは全部男の子に押しつけていたのですから。
「きみは正義感があるから」「分別があるから」「面倒見のいい子だね」
誉め言葉は、彼をていよく使うための方便でしかありませんでした。
これまでのように大人に利用されそうになるたびに、小さな悪魔は男の子に教えてあげました。男の子はもう、そんな大人に騙されることはなくなりました。いじめっ子にわずらわされることもなくなりました。
男の子は、以前よりもずっと自由になった気がします。悪魔になってよかったと思いました。




