36.忘却 後編
小さな悪魔は、女の子を家にいれませんでした。
おじいさんは、もうベッドから起きあがれないのです。命の炎はかすかに残るばかりです。この部屋はどす黒い霧のような病原菌でいっぱいです。小さな悪魔にはそれが見えています。
小さな悪魔がいくら帰るように言っても、女の子はいうことをききません。小さな悪魔はあきらめて言いました。
「僕がきみの家にいって、おじいさんのようすを話してあげるから、とにかくここには来ないで」
小さな悪魔は、おじいさんとの約束を守らなければならないのです。
小さな悪魔は、おじいさんが眠っている間にこっそりとぬけだして、女の子に会いにいくようになりました。彼女の心を傷つけないで断ることが、おじいさんの願いだったからです。
小さな悪魔は日が暮れると女の子の家に行きました。昼間は、女の子は働いているのです。病気を怖れて家に閉じこもっている人たちのために、食品を届ける仕事です。おじいさんと知り合ったのも、その仕事を通してのことでした。それから一人暮らしのおじいさんのために、身の回りの世話までしてあげるようになったのでした。
「おじいさんはいつも私の心配をしてくれて、仕事をやめて家にいろって言うの。だけど、私にはそんな余裕はないの――。働かないと、病気になるより先に飢え死にしてしまうわ」
女の子は、小さな悪魔にいろんな愚痴をこぼします。
小さな悪魔は、ベッドに横たわるおじいさんを静かにじっと見守っています。ふっと、おじいさんの呼吸が楽になり、苦しそうに閉じられていたまぶたが開きました。
「お前さん、まだいてくれたのか」
おじいさんは、小さな悪魔に笑いかけて言いました。
「ひとりでいくもんだとばかり思っていたのに」
小さな悪魔も、にっこりとおじいさんに微笑みかえします。
「地獄でまたお前さんに会えるかな――」
小さな悪魔は黙ったまま、黒い斑点の浮きでているおじいさんの手をぐっとにぎりました。やがて、おじいさんは嬉しそうに微笑んだまま、静かにこときれました。
小さな悪魔には、おじいさんの魂を迎えるためにやってくる御使いたちの羽音が聞こえています。高らかなラッパの音も聞こえています。だから、おじいさんの手を胸元で組ませると、そっとこの部屋から逃げだしました。
小さな悪魔は、おじいさんの躰をもらいませんでした。おじいさんと悪魔との契約は成立しなかったのです。神も悪魔ものろうことなく生涯を終えたおじいさんは天国へ迎えられるのです。もう二度と小さな悪魔と会うことはないでしょう。小さな悪魔は、おじいさんの魂が天に召されるのを、暗い木陰にかくれて見送りました。
そして翌日、おじいさんの躯が白い無菌服を着た連中に袋に入れられて運ばれていくのを、小さな悪魔は屋根の上から見ています。おじいさんの躯は墓地に葬られることなく、たくさんの躯といっしょに焼かれるのです。女の子は、おじいさんにお別れを告げることもできませんでした。
けれど、やがて女の子は知るでしょう。おじいさんは、自分の財産をすべて女の子に残したということを――。これで、伝染病がおさまり世界が安全になるまで、女の子は仕事をやめて、おじいさんの用意した家にこもって暮らすことができるのです。
おじいさんはお金持ちでした。病気の蔓延する大きな町から、生まれた家のあるこの小さな村へと、いち早く逃げだしてきたのでした。生まれ故郷といっても、知った人など一人もいない場所でした。病気の町からやって来たおじいさんを、この村の誰もが嫌がりました。女の子だけが、おじいさんに親切にしてあげたのです。
小さな悪魔は、遠く離れた焼き場から昇る一筋の煙をぼんやり眺めていました。けれどそのとき、そばにある教会の十字架に黒い烏がとまっているのに気づいたのです。
大きな悪魔だ!
小さな悪魔は、いきおい飛びたちました。
「きみの言う通り、人間と遊ぶのもなかなか面白かったよ」
烏の姿をした大きな悪魔が、楽しそうに言いました。
「あのねずみは、僕と遊ぶためのものじゃなかったの?」
「それもある。でもそれだけじゃない」
大きな悪魔は、バサバサと大きく羽ばたきました。
元の姿に戻った大きな悪魔が十字架の先に両脚をそろえて立ち、小さな悪魔を見おろしています。
「人間たちの願いを全部まとめて一度にかなえてやったのさ」
「どんな願い?」
たくさんの人間の願いを一度にだなんて――。
そんなことができるのでしょうか? 小さな悪魔は驚いてたずねました。
「ひとつ。出世したいのに、うえのポストは年寄りばかりがいすわっていばってる。あんな老害連中、死ねばいいのに!」
小さな悪魔は、大きく目を見開きました。
大きな悪魔は、人間の願いをかなえるために、おじいさんを病気にしただなんて!
「ふたつ。毎日あくせく満員電車にのって会社に行くのは嫌だ! 家にこもってゆっくりしたい、おもいきりだらだらさせてくれ!」
大きな悪魔は歌うようにつづけます。
「みっつ。人が多すぎてがまんできない! この人ごみをどうにかしてくれ!」
「よっつ。税金を納めない病人や貧乏人を養うために税金を払うのは嫌だ! 働かないやつは、町からいなくなればいいのに!」
大きな悪魔は、腹を抱えて笑いました。
「望みどおりに病人や貧乏人を消してやったよ! どうだい、俺は首尾よくやっただろ! なかなかいい仕事だと思わないか! まだまだあるぞ! 大気汚染をなくしてやって、野生動物まで人間から解放してやった、大判振舞いだ! 俺はなんて働き者なんだ! あれよりもずっとな」
大きな悪魔は、あごをしゃくって天を指します。
小さな悪魔は、首をすくめてこわごわと、ぬけるような蒼天をみやります。
小さな悪魔は、心の底から驚いていました。
世界中の町から人間が消え、家のなかにひっこんで姿を見せなくなったのが、まさか大きな悪魔が人間の願いをかなえてやったからだなんて――。
小さな悪魔は、思いつきもなかったのです。
大きな悪魔の小さなねずみ。あれが、人間の願いから生まれたものだなんて――。
小さな悪魔には、やっぱり信じられませんでした。でも、言われてみればその通りです。願いはたしかに成就されています。この人間たちの願いは、小さな悪魔も何度も耳にしたことがあるものばかりです。ただ、小さな悪魔は、そんなつまらない願いをかなえてやりたいと思ったことはなかっただけで――。
「それで、あなたは見返りに何をもらったの?」
小さな悪魔は大きな悪魔にたずねました。
「静寂――。思うぞんぶん昼寝したよ!」
大きな悪魔は、にっと唇を横に引いて言いました。
「とはいえ、昼寝にも飽きた。もう地獄に帰るとするよ。むこうじゃ満員御霊でおお忙しだろうさ。高みの見物としゃれこんで、ひさしぶりに仲間とパーティーで楽しむさ!」
大きな悪魔は、とん、と十字架をけって、くるりととんぼ返りをうちました。
「またな、小さいの!」
「待って! あのねずみはどうするの?」
「そのうち笛吹きがどうにかするさ!」
大きな悪魔は消えてしまいました。小さな悪魔は、ぼんやりと目の前の十字架を見つめるばかりです。やがて小さな悪魔は、ため息をひとつついて、「帰ろう」と呟きました。いつもの公園の樹をひさしぶりに思いだしたのです。
小さな悪魔は、知りませんでした。
おじいさんの助けたかった女の子が、小さな悪魔に恋しているということを――。
女の子は、おじいさんの用意してあげた快適な家には行きません。代わりにあのおじいさんの小さな家に住んで、小さな悪魔が来るのをずっと待ちつづけることでしょう。
女の子は、知りませんでした。
小さな悪魔は、もうすっかり女の子のことなど忘れてしまっているということを――。初めから彼は、彼女に何の興味もなかったのです。
小さな悪魔とおじいさんの契約は成立しませんでした。だから、女の子の心を傷つけないで欲しいというおじいさんの願いもまた、成就されなかったのです。




