34.忘却 前編
小さな悪魔は、公園の樹の枝に退屈そうに腰かけています。
じっと耳を澄ましているのです。ずっとそうしています。けれど聞こえるのは、男の子が枝を揺する音ばかり。
世界は静まりかえっています。誰も公園にやってきません。
こんなにいいお天気なのに! 人間の大好きな花が、こんなにたくさん咲いているのに! 見わたす限り、人っ子ひとりいないのです。
あまりにつまらなくて、小さな悪魔は大嫌いな色とりどりの花をむしる気にもなりません。
それに、小さな悪魔は大きな悪魔に怒っていました。
人間が家から出てこなくなったのは、大きな悪魔のせいなのです。大きな悪魔のくれた小さな白いねずみ。あのねずみを、大きな悪魔が小さな木の家からつまみあげて、野に放ったからです。
小さな悪魔が女の子に魔法陣で呼びだされて契約をこなしている間に、ねずみはどんどん増えて世界中に散らばっていきました。
もう人間は、ねずみの運ぶ病気をおそれて誰も家からでてきません。公園に遊びにくることもありません。小さな悪魔がいくらこの樹のうえから目をこらしてながめたところで、誰もがおびえて家のなかでちぢこまっているのです。
こんなの、小さな悪魔はちっとも面白くありません。小さな悪魔は、もっとにぎやかに楽しみたいのです。辛気臭いのは嫌なのです。
小さな悪魔は、大きな悪魔の面白がることがちっともわかりません。それなのに、小さな悪魔はやはり、大きな悪魔といっしょに楽しめればいいのに、と思ってしまうのです。大きな悪魔が会いにきてくれればいいのに、とこの樹に腰かけて空ばかりながめているのです。
小さな悪魔は、そんな自分がほとほと嫌になっていました。
「気ばらしに行こう」
小さな悪魔はつぶいて、樹の枝をぽんとけって飛びたちました。若葉のしげる樹のかげで、男の子の魂がそんな小さな悪魔を見送っています。
行けども行けども、町の通りには誰もいません。小さな悪魔は、こんな世界に飽き飽きしています。でも、家のなかには人間がいるはずです。きっと人間だってこんな世界はいやなはずです。きっと文句を言っているにちがいありません。不平を言っているにちがいないのです。小さな悪魔は、思いました。人間だってこの世界から逃げだすために悪魔を探しているに決まっている、と。
その不満をきいてやって、願いをかなえてやればいいのです。そうすれば、人間はきっと小さな悪魔にその躰をくれるもの!
小さな悪魔は、根気よく耳をそばだてて探しました。そして、とうとう見つけました。
「ああ、この願いがかなうなら、悪魔に魂をくれてやったって惜しくはないんじゃが!」
ため息とともに、そんなつぶやきがはきだされたのです。
「どんな願いをかなえて欲しいの?」
小さな悪魔は、小さな村はずれにある小さな家の中の、その声の主の前に降りたちました。
そこはせまいけれど、明るくて清潔な部屋でした。古ぼけた机に椅子。今にも壊れそうな揺り椅子が一つ。そまつなベッドが一つ。その上におじいさんが寝ています。おじいさんは目をぱちくりさせて小さな悪魔を見ています。
「あなたの願いは何? なんでもかなえてあげるよ」
小さな悪魔は、繰り返して言いました。
「わしは病気なんじゃよ」
「元気になりたいの?」
おじいさんは笑って首を横にふりました。
「じゃあ、若返りたい?」
「わしはもう充分生きた。これ以上長生きしたいなんて思わんよ」
「人生をやりなおせばいいじゃないか」
「お若いの、いまさら、そんな大それたことはいいんじゃよ」
小さな悪魔は、ちょっと小首をかしげます。
「願いを言って」
「わしの世話をやきに、毎日、女の子が家に来るんじゃが、あの子が来ないようにしてほしいんじゃ。あの子にわしの病気がうつるんじゃないかって、わしは気が気じゃないんじゃよ」
小さな悪魔は、きょとんと首を傾げました。このおじいさんはどうしてそんなつまらない願いを言うのでしょう! せっかく悪魔がなんでも願いをかなえてあげると言っているのに! 病気をうつすのがいやなのなら、元気になればいいのです。女の子を来させるな、なんてことよりも、そっちの方がいいにきまっています。だけどこのおじいさんは、首を横にふるのです。「そんなことは望まない」と。
小さな悪魔は、不思議な気持ちでこのおじいさんを見つめました。おじいさんの命の炎はもうじき消えるでしょう。残されている時間はあまりなさそうです。こんな躰をもらったところで、小さな悪魔は、あまり楽しめるとは思えません。だけど――。
このおじいさんは、このつまらない願いを、神にではなく悪魔に祈ったのです。小さな悪魔を呼んだのです。
小さな悪魔は、おじいさんの願いをかなえて、その年老いた躰をもらうことに決めました。
「いいよ。あなたの願いをかなえてあげる。その代わりに――」
こうして小さな悪魔は、おじいさんと契約したのでした。




