31.ねずみ 前編
小さな悪魔は、知らない町に来ています。
大きな悪魔といっしょです。そのことが少しだけ、小さな悪魔にはうれしいのです。だって、大きな悪魔が、またさそってくれたのですもの。それに、
――いっしょの方が楽しめる。
そう言ってもらえたことが、うれしかったのです。理解してもらえたのだ、と小さな悪魔は思ったのです。
「きみは人間になりたいのだろう? ほら、あそこに、ちょうどいい子どもがいる。あの家の子どもになって時が来るのを待っていてくれ」
大きな悪魔は言いました。
見ると、石だたみの路地の石づくりの家の中の、そまつな暗い部屋の小さなベッドの上で男の子が死にかかっています。ひどい熱があるようです。もう魂もぬけかけています。その子どものそばには母親らしい女がいます。つきっきりで子どものお世話をしています。父親もいます。それから、兄弟もたくさんいます。年寄りもいます。この狭い家に、いったいどれだけの人間がくらしているのでしょう!
でも、そのひとり、ひとりが、かわるがわるやさしい言葉や、お花や、おかしや、きれいなガラス玉をベッドにいる子どもにくれて、はやくよくなるように、と、けんめいにはげましているのです。
この家の人間は、子どもを大事にしてくれる。小さな悪魔はそう思いました。
「じゃ、さきにいってるね」小さな悪魔は、大きな悪魔に言いました。
大きな悪魔は、にっこり笑ってくるりと宙返りすると、消えてしまいました。
小さな悪魔が男の子の躰に入ると、ずっとうなされていた躰はしずまって、ぱっちりと目をあけました。家族はみな、喜びました。
小さな悪魔は、ほとんど離れかけていた魂をなんとかつなぎとめて、心のおくにとじこめました。男の子の躰はとても弱っていたからです。小さな悪魔の大嫌いな温かいスープを飲んで、まずは体力をつけなければなりません。
男の子はすぐに元気になりました。小さな悪魔が、男の子の家族の耳もとでささやいて、熱の下がる草や、栄養になる草を教えてあげたからです。悪魔というものは、とても賢いのです。小さな悪魔にもなぜだかわからないけれど、はじめからいろんなことを知っているのです。
男の子の家は、薬草をつんでは薬をつくり、それを売ってお金持ちになりました。小さな悪魔の薬草は、いろんな病気にとてもよく効いたからです。
男の子の家族は、貧乏なときも、少しお金持ちになってからも変わらずに小さな悪魔をかわいがってくれました。大家族だったので、小さな悪魔が火の通ったものを食べなかったり、ちらかった部屋が好きだとしても、気にすることはありませんでした。それくらい、大したことではなかったのです。家族のなかでいちばん小さな子どもである小さな悪魔は、いくらわがままをいったっていいのです。
さすが大きな悪魔だ、と小さな悪魔は感心しました。今までくらしたどんな人間の家よりも、この家はすみごこちがいいのです。こんな家を、小さな悪魔はひとりでは見つけることはできませんでした。
父親ははたらきものです。でも、子どもたちとも遊んでくれます。母親が見たらまゆをひそめるような、らんぼうな遊びも教えてくれます。たくさんの兄たちも同じです。みんなでたくさんいたずらをしました。小さな悪魔はいちばんちびすけだったけれど、仲間はずれになんてされません。たまに小さな悪魔がほかの子にいじわるをされると、この兄たちは、いつもやっつけてくれました。
いつも家にいる母親も、小さな悪魔をとくべつかわいがってくれました。いつも小さな悪魔だけを抱きしめてくれるのです。ふたりの年寄りも、こっそりと、小さな悪魔にだけ、とくべつにあまいおかしをくれました。母親のてつだいをしている姉たちも、小さな悪魔にとてもやさしいのです。小さな悪魔の失敗を、こっそり隠してくれたりするのです。
小さな悪魔は、この家の王さまです。小さな悪魔は、たいへん満足していました。
でも、ひとつだけ不満がありました。
大きな悪魔がこないのです。「時を待て」と言ったきり、いつまでたってもその時がこないのです。楽しい毎日ではありましたが、そのことが、ぽっかりとものたりないのでした。
でも、やっとその時が来たようです。
兄弟たちが薬草つみをしているあいだ、森のいりぐちの原っぱでひとりで遊んでいた小さな悪魔の前に、大きな悪魔がおりたちました。
「人間の生活は楽しいかい?」
大きな悪魔は、小さな悪魔を見ろしています。
「楽しいよ。でも、あなたが来るのをずっと待っていたんだよ」
「それは、それは。遅くなったおわびにこれをやるよ」
大きな悪魔のさしだした、しなやかな手のひらにのっていたのは、いっぴきの白いねずみでした。




