30.善意 後編
小さな悪魔は、驚きました。
まさか、大きな悪魔が来てくれるなんて、思ってもみなかったのです。小さな悪魔はうれしくなって、にっこりしました。
「ひさしぶりだね、元気だった?」
そういってしまってから、小さな悪魔はじぶんの言葉のばかばかしさに笑いました。悪魔には、元気も病気もありません。こんなあいさつは、まるで人間みたいです。
大きな悪魔もそう思ったのでしょう。鏡のなかからするりと出てきて、ニヤニヤと笑っています。
「大好きな人間になって、はかない生を謳歌している、って面じゃないな。うまくいってないのかい? たすけてやろうか?」
大きな悪魔は、小さな悪魔のベッドの上に乗ると、ポヨン、ポヨーンと飛び跳ねながら言いました。小さな悪魔の小さな躰も、大きく上に、下にと揺れています。
「たすけてくれる? でも、どうやって?」
小さな悪魔は、大きな声をあげました。大きな悪魔は空中で、くるりと宙返りしています。逆立ちしたまま宙に止まった大きな悪魔は、とてもきれいに微笑みました。
「きみの煩いは、あの女なんだろう? 追いはらってやるよ」
小さな悪魔はまた、ぱあーと笑顔をさかせます。
「そのかわり、ここのくらしにあきたら、今度は俺の遊びにつきあってくれ。どうやら、きみといっしょのほうが、俺も楽しめる気がするんだ」
「いいよ! 約束する!」
小さな悪魔の返事とどうじに、大きな悪魔は消えてしまいました。あとには小さな火花が、ねずみ花火のようにうずまいているだけです。
それからまたしばらくは、かわりない日々がつづきました。小さな悪魔の大嫌いなあの女は、あいかわらず、小さな悪魔にしつこく世話をやいています。
そのうち大きな悪魔がなんとかしてくれる――。
小さな悪魔はじっとがまんをしています。食事のときは、いぜんのように小さな躰からぬけでるようにしました。このままでは、この躰は死んでしまいそうだったからです。女は、小さな悪魔が自分のいうことをきいて、ちゃんと食べるようになったので、すっかり安心して父親にじまんしています。けれど父親はうかない顔でうなずくだけで、そんな二人を見ているのでした。
小さな悪魔の家で、女はわがもの顔でくらしています。小さな悪魔は、保育園で小さないじわるをたくさんして、うさをはらします。
家ではほとんど寝てすごします。父親はどんどん帰ってくる時間がおそくなっています。でも、一日に一度はかならず、小さな悪魔の部屋にきて、やさしく頭をなでてくれるのです。だから、小さな悪魔はとてもいい子で待ちました。大きな悪魔が彼をたすけてくれるのを。
そんなある日のことでした。父親が言いました。
「離婚が成立したよ」
女はおおよろこびで、顔をほころばせています。
「いっしょに暮らしたい女性がいるんだ。きみはもうこの家から出ていってくれ」
父親はつづけて言いました。
「きみがこの子の嫌がるものばかりを食べさせて、この子の嫌がることばかりするものだから、この子は母親のように心の病気になってしまった。これからは彼女にこの子の世話をしてもらう。彼女は専門の医者なんだ。さぁ、出ていってくれ」
女はおどろき、わなわなとふるえ、泣きだしました。
けれど、父親はつめたく、ドアを指さすだけです。
家から追い出された女にかわってやってきたのは、とても美しい女でした。美しいはずです。だってこの女は、大きな悪魔なのですから。
小さな悪魔はよろこびました。これから親子三人でなかよく暮らすのだと思ったのです。
けれど、そうはならなかったのです。
父親はすっかり、この新しい、美しい妻にむちゅうです。毎晩のようにふたりで遊びにでかけるようになりました。
大きな悪魔は小さな悪魔にささやきます。
「そんな子どもの躰なんて捨ててしまえ。そうすればきみもいっしょに遊べるのに」
妻にむちゅうの父親も、大きな悪魔も、ほかのだれも、もう小さな悪魔のお世話をしてくれません。小さな悪魔が「ぱぱ」と呼んでも、もうその声は父親にはとどきません。ひとりぼっちの小さな悪魔の部屋のくすんだかべに反響して、大きな悪魔の享楽的な笑い声がひびくだけです。
小さな悪魔の小さな躰は、かれ枝のようにやせ細り、死んでしまいました。
死んだ子どもの屍を父親がみつけた日、美しい妻もこつぜんと消えてしまいました。ほんとうに彼女は存在したのかどうかさえ、もうさだかではありません。
小さな女の子のお葬式では、隣人がひそひそと話しています。子どもを衰弱死させた父親とは、だれも目を合わせようとはしません。ただひとりをのぞいて。
父親の追い出したあの女だけが、ゆいいつこの場でほんものの涙をながして、女の子の死を悲しんでいたのでした。
そのようすを空の高みからながめていた小さな悪魔に、大きな悪魔が声をかけます。
「さぁ、もうじゅうぶん楽しんだだろう。つぎは、俺のばんだ」




