3.魔法陣
小さな悪魔は魔法陣で呼び出されました。
彼にとっての初仕事です。誰に教わったわけでもありません。でも、生まれたときから知っていました。こんなこともあることを。
頭を鉗子でギリギリとはさまれ、ひっぱり上げられたような感覚でした。
気がつくと、古ぼけた木の床の上にいました。チョークで魔法陣が描かれています。そのまん中に小さな悪魔はあぐらをかいて座っていたのです。頭がズキズキと痛むので、ひどいしかめっつらをしています。
目の前には若い男がぽかんとつっ立っています。やせた、貧相な男です。着古した服はよれよれのだぶだぶです。この部屋も貧乏くさい屋根裏部屋です。
「契約するの?」
小さな悪魔はかた通りの質問をしました。男は、はっと我に返って、何度もうなずきます。
「望みは?」
男の目の前に、黄ばんだ羊皮紙が浮かんでいます。男が息せきこんで話しだすと、その言葉が勝手にその上につづられていきます。
「かわりに、その躰をくれる?」
「躰?」
男はけげんそうにつぶやきました。ふつう、悪魔との契約の代償は自分の魂なのです。
「躰をやったら魂はどうなるんだ?」
「知らないよ」
男は考えました。これはもしかして、すこぶる幸運なのではないか、と。
魂をとられれば、どうせこの躰は死ぬ。でも、躰をやっても魂さえぶじなら、天国へ行けるのでは?
男は、この頭の悪そうな、ものの分かっていない小さな悪魔をながめまわし、ほくそえみました。
「承知した」
男はナイフで自分の指を傷つけ、契約書ににじみ出る赤い血で署名しました。契約成立です。
男の望みは恋の成就でした。
相手はつまらない女でした。なぜこんな女を手に入れるために自分が呼び出されたのか、小さな悪魔は不思議でなりません。
男と同じように貧しい女でした。容姿はそこそこ、じみで陰気くさく、小さな悪魔の好みではありません。
ですがこれも仕事です。小さな悪魔は媚薬を使って、男と女を恋人どうしにしました。これでこの仕事は完了です。ですが男はとても身勝手な人間でした。恋の成就といっても、自分はいまだ満足していない、と言いだしました。
媚薬を用いた愛は、本物の愛ではない。これでは自分の恋は成就したとはいえないと。
小さな悪魔は首をかしげました。本物の愛が欲しいのなら、なぜ自分に頼んだのかが不思議でなりません。そもそも悪魔に本物の愛がわかると思っているのでしょうか? そのことがとても気になったので、小さな悪魔は男の躰をすぐにはとりあげず、しばらくこの二人のようすを見てみることにしました。
女と恋人同士になった男は、ことあるごとに女を疑い、なじりました。
「自分を愛しているのなら」
これが男の口ぐせでした。女は、「愛している」「愛している」と言いながら泣きました。男の要求はどんどんエスカレートしていきます。女は男のために働き、世話をし、彼の顔色をうかがいながらくらします。でも男は満足しません。「自分を愛しているのなら」もっと奉仕しろ、と言うのです。
ある日、男は小さな悪魔に言いました。
あんな女では本当の恋を成就させることはできない。もっといい女を用意しろと。
小さな悪魔は首をかしげました。そんなこと、契約のうちに入っていただろうか。たしかに男の望みは恋の成就です。契約書には、相手の女の名は書かれていません。
小さな悪魔は考えました。しげしげと目の前の男を眺めまわしました。この男の望みをかなえれば、この人間の躰が手に入るのです。小さな悪魔は、自分のものになる前に少し手入れをしておこう、と思いました。
小さな悪魔は、男にはないしょでまた媚薬を用い、美しい女と男を恋人同士にしてやりました。こんどの女は金持ちでした。男にどんどんお金をつぎこみました。貧相な男はまたたく間にりっぱな外見を手に入れました。よれよれの服は流行のパリッとした高級品に変わり、やせ細っていた躰も、青白かった顔も、たくましく血色良くなりました。
男は満足そうに見えました。
しばらくして、男は新しい女に言いました。
「自分を愛しているのなら」別れてくれ、と。男はこの女にも飽きたのでした。
男は小さな悪魔にも言いました。
「もうお前の力は要らない。俺は自分の力で恋を成就させることができたからな。契約は不成立だ」
小さな悪魔は「かまわないよ」と笑って言いました。
小さな悪魔は、公園の樹の枝に座って待っています。
もうじき、二人の女たちに、新しい恋も、仕事も、日々の生活すらことごとくじゃまされ破滅した男が、この枝にロープをかけるために、ここに来ることでしょう。
樹の枝にぶら下がる男の躯にすがって、二人の女は言いました。「愛しているの」。そして男の後を追うため、たがいの心臓をナイフで刺しつらぬきました。
ほら、いそがなければ。男の魂が逃げてしまうよ。
男の躰に入り込んだ小さな悪魔は、首のロープを外し、二人の女に両わきをつかまれ、地獄に引きづられていく男の魂を見送りながらつぶやきました。
「恋の成就おめでとう」