20.大きな悪魔 前編
小さな悪魔は、公園の樹の枝に帰ってきました。
男の子の魂が、変わらず枝を揺すっています。枝には木の葉ではなくふわふわの雪が積もっています。粉砂糖を吹きちらすように男の子の魂は枝を揺すり、薄光の中にチラチラと銀色の輝きをまいています。
小さな悪魔は、音もなく男の子の魂の横に腰かけました。小さな悪魔はいらだっていました。
彼は、母親との契約を成就しました。母親と約束したとおり、子どもたちが大人になるまで彼らを育てました。子どもたちは小さな悪魔のもとから巣だっていきました。小さな悪魔は母親の躰をてに入れました。
けれど小さな悪魔は、どうしていいのか、わからなくなったのです。せっかく手に入れたこの母親の躰でしたいことが見つからないのです。
小さな悪魔は長い間、何もしない母親でした。子どものそばにいるだけの母親でした。子どもがいなくなった後、何をすればいいのでしょう?
こんな躰もう嫌だ。小さな悪魔はそう思いました。でも、この躰を捨てて、殺してしまうこともできなかったのです。そんなことをすれば、子どもたちが悲しむからです。子どもを不幸な気持ちにさせるのは契約違反です。でも、もう我慢できなかったのです。家を出た子どもたちが時々遊びにきてくれるのを待つだけの毎日なんて。何のために自分がここにいるのかわからなくなるのです。どんどん自分がからっぽになっていくのです。
小さな悪魔は、ずっと躰の奥底で眠りつづけていた母親の魂を起こしました。そしてこの躰を彼女に返しました。
「この躰が死ぬ時、魂をもらいにくるよ」
そう言って小さく笑いました。
そうしていつもの彼の樹に帰ってきたのでした。男の子の魂を見て、小さな悪魔はほっとしました。木の枝に腰かけ、じっと世界を見渡しました。
何か面白いことを見つけよう。
小さな悪魔は、世界の隅々に目をくばります。
「やぁ、きみ!」
頭上から楽しそうな声がきこえます。
見上げると、黒のチェスターコートに黒のタートルネックのセーターを着て、黒光りするツヤツヤの靴をはいた男が、小さな悪魔を見おろしています。
それは大きな悪魔でした。
「ずいぶん退屈そうにしているじゃないか。楽しませてやろうか?」
大きな悪魔は、赤い唇を横にひいて笑っています。小さな悪魔に手を差しだしています。小さな悪魔は、その手をとりました。へいぜんとした顔を取りつくろっていましたが、内心、ドキドキでいっぱいでした。小さな悪魔は、初めて仲間の悪魔にであったのです。それも、自分よりもずっと大人の悪魔です。
「どんな楽しみを見せてくれる?」
小さな悪魔は、きどった口調でたずねました。大きな悪魔に馬鹿にされるのが恥ずかしかったからです。
「何でも!」
大きな悪魔はクスクス笑っています。
「何から行こうか?」
指をパチンッと弾きます。
初めに訪れたのは、大きなカジノ場でした。小さな悪魔は、大きな悪魔がすることを見ていました。
大きな悪魔は、一人の貧しい男を拾ってきました。彼が男の耳もとでささやくたびに、男は金持ちになっていきました。男に美しい娘をあてがいました。男は恋に落ちしあわせの絶頂にいます。
小さな悪魔は、大きな悪魔のすることを不思議そうに見ています。こんなことは、いつも小さな悪魔がしていることで、とっくに飽き飽きしていることです。なにが楽しいんだろう? 小さな悪魔は不思議でたまりません。でもひとつだけ、小さな悪魔とは違うところがありました。
大きな悪魔は、男と契約しないのに、男の願いをかなえてやっているのです。その耳もとでささやくだけで、男の欲を満たしてやっているのです。
なんのためにそんなことをしているのだろう?
小さな悪魔はたずねました。
「まぁ、見てろって」
大きな悪魔は、笑っています。
男はその娘と結婚しました。二人はしあわせに暮らしています。小さな悪魔はますますわけがわかりません。男はもうカジノの客ではなくなっています。カジノの経営者になっているのです。男と妻は、毎日ぜいたくな生活を送っています。二人にはかわいい子どもも生まれました。
「そろそろいいかな」
大きな悪魔は、赤い唇をひきあげて艶やかに笑います。
妻の父親や弟が、男の経営するカジノ場で大きな借金をおっていることが発覚しました。男には寝耳に水の話です。男はその借金の穴を埋めるために、ほんそうしなければなりません。それでも、妻の身内の開けた穴から、今まで貯めこんできた金が湯水のように流れだしていくのを止めることができません。あっ、という間にお金がつきても、妻はぜいたくな暮らしを変えようともしません。
気がついた時には、男は何もかも失っていました。妻はとっくに若い愛人と駆け落ちし、自分をちやほやしていた連中は一人残らず知らん顔です。それでも、この子のためにと頑張ってきたのに、子どもも流行り病で死んでしまいました。呆然自失の男は、ただ一人、十字路の真ん中にたたずんでいます。
「どうだい、面白いだろう?」
大きな悪魔は言いました。
小さな悪魔は、顔をしかめて首をふります。
「ぜんぜん」
大きな悪魔は、ぴっと眉毛をはねあげました。




