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2.黒い仔犬

 小さな悪魔はとても退屈していました。


 人間になった時はあんなに楽しかったのに。

 そんな苦々しい想いが胸をふさぎ、何をしても心から楽しめないのです。それなのに、もう一度人間になるチャンスもそうそう見つからないのでした。



 その日も彼は、いつもの枝に腰かけていました。

 公園の樹から世界を見渡すのが、小さな悪魔の日課だからです。


 梢がざわざわとざわめき、小さな木の実がぽろぽろと涙のしずくのように地面にこぼれ落ちます。

 小さな悪魔はかたわらで梢を揺する、透き通った男の子を見上げます。彼がかつて、その躰をうばった男の子の魂です。躰が死んでしまったので、この魂にはもう生きていた頃の記憶はありません。それなのにこの魂は、いつもこうやって梢を揺するのです。


 〝ここにいるよ″

 〝ここにいるよ″


 葉づれの音は、男の子の声に似ています。



 少し離れたベンチにはこの男の子の母親が腰かけています。日がな一日、自分の子どもが首を吊ったこの樹をながめているのです。毎日、毎日欠かさずに。

 小さな悪魔は、不思議でなりませんでした。

 この母親には、小さな悪魔が息子の姿をしていても、本当は悪魔だと、すぐに気づかれてしまったのです。なのにどうして、あんなつらそうな顔をして泣くのでしょう? あんなにおびえて彼のことを見ていたのに。小さな悪魔はそのことが気になってしかたがありません。



 小さな悪魔は、いいことを思いつきました。

 数日前、いけがきのかげに仔犬が一匹捨てられていました。あの仔犬はきっともうすぐ死ぬでしょう。小さな悪魔はぐったりとしている仔犬の腹をけ飛ばしました。あの母親の目につくように。


 ところが仔犬は、きゅうん、きゅうんと鳴きながらいちもくさんに逃げ出したのです。最後の力をふりしぼって。

 小さな悪魔はおどろきました。ベンチの母親も、いきなり飛び出して来た黒いかたまりにおどろき、立ち上がりました。その黒い生き物はあきらかにおびえているようでした。母親は、心配になって仔犬を追いかけました。小さな悪魔はそれよりも早く仔犬に追いつくと、その小さな躰を池にめがけてけり上げました。


 水しぶきが上がり、バチャバチャと仔犬はもがいています。母親が池のはたにつく前に、仔犬は力つきてしまいました。母親は自分がぬれるのもかまわず、にごった水の中に足を踏みいれ見えなくなった仔犬を探しました。からまる()をかき分けて探しました。

 やっと両手のひらにすくいあげた時、小さな悪魔は魂のぬけたその仔犬の躰に入りこみ、身ぶるいしました。母親は泣き笑いしてよろこんで、大切に彼を自分の家につれて帰りました。




 あいかわらずきれいに片づいたいごこちの悪い家でした。小さな悪魔はイライラしてうなり声をあげました。毛足の長いじゅうたんを、小さな牙で食いちぎりました。きれいなクッションにかみつきました。母親はにこにこ笑って見ています。

 

 夕飯は、以前この家で出された食事よりずっとマシでした。母親は、生のミンチ肉をくれたのです。彼はよろこんで食べました。


 男の子のにおいはいまだにしみついているのに、父親のにおいが消えていることに、小さな悪魔は気づきました。男の子が死んで、父親は出て行ったのです。この家には、小さな悪魔と母親の二人きりです。


 母親は、小さな悪魔が部屋をどんなに汚くしても笑っています。それに男の子の時とはちがい、黒い仔犬の小さな悪魔をいつもかまってくれました。胸にだいて公園にもつれて行ってくれます。笑いかけてくれます。

 小さな悪魔は、人間ではなく仔犬だけれど、これはこれで満足でした。




 だから、それはほんの気まぐれな思いつきだったのです。


 ある夜、眠っている母親をながめていた小さな悪魔は、彼女の胸に乗り、その夢をのぞきこみました。


 夢の中で、母親は子どもの名前を呼びながら霧の中をさまよっていました。

 小さな悪魔は、母親に男の子の姿を見せてあげました。魂の居場所を教えてあげました。



 母親は悲鳴を上げて飛び起きて、(きり)のように細かな雨が降りしきる中、裸足のまま公園に走りました。この樹の中に息子の魂がいるのです。とりすがり、まっ白な息をこきざみに吐きながら、ひっしに木の皮をむしりました。ほっそりした指のひふが破れ、樹のみきが彼女の血で真っかにそまっていきます。小さな悪魔が、その黒い毛皮におおわれた躰を彼女の脚にこすりつけて呼んでも、見むきもしません。


 小さな悪魔はばからしくなりました。

 やはり、こんな獣の躰はつまらない。


 とんとんと、樹の枝に上ると、小さな悪魔はこの仔犬の躰を放りすてました。その躰は、樹のみきをだきしめ、木の皮をむしり続ける母親のそばの地面にたたきつけられ、ボールのようにはねて転がりました。




 ひんやりとただよう朝靄(あさもや)の中、母親は息たえていました。


 枝に腰かけた小さな悪魔の横で、男の子の魂は梢を揺すります。しなる枝から、母親の(むくろ)の上に木の実がパラパラと落ちてゆきます。そして、その音にかぶさるように、葉づれがささやくのでした。


 〝ここにいるよ″

 〝ここにいるよ″



 次はやはり人間になろう。

 小さな悪魔は、そう、ぼんやりと考えたのでした。






 

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