【第三十七話】 化け物の巣窟
一万ディールほどの食費(ほぼ全部マリアの)が浮いたところで、俺達三人は黒霧谷へと出発した。
俺とマリア、そしてさっき出会ったばかりのバンダーという男の三人だ。
すぐ傍を流れる川に沿って進んで行けばいいということらしく、一見長閑で静かな自然の中を歩いていく。
それを聞くなり即川に向かおうとした俺に待ったを掛けたのはバンダーである。
「そのまま向かう気かよ、恐ろしい連中だなおい」
とかなんとかほざく理由は全く分かっていなかったが、言われるがままについていく先で購入したのは瓢箪みたいな物に入った水だった。
なるほど、山だか森だか谷だかに徒歩で行くというのに水分補給の備えをしないとは何たることか、という意味だったらしい。
言われてみればその通り過ぎるのでぐうの音も出ねえわ。
だってソフィーの時もリリの時も微塵もそんな気配なかったもの。
このバンダーという男、軽薄だしマリアとは違う意味で大丈夫かと密かに不安に思っていたのだが、自称ハンターだけあって中々どうして知識や経験は豊富なようだ。
道案内が出来ることも含め、こいつがいなかったら普通にヤバかったかもしれない。
仮面を装着しているので表情は見えないが、今尚マリアに危機感や緊張感なんて微塵もないもの。
出会った当初にも言ったけど、お前ほんと感情どこかに忘れてきたの? ってぐらいテンションが変わらないんだもの。
出発してからも一言も喋ってないし……まあ、いざとなったら頑張ってくれるだろ。多分、きっと、いやマジで。
とまあ、何とも不安しかない状態で川沿いを歩き、徐々に村から遠ざかっていく。
先頭にバンダーが、その後ろに俺が、そして俺のすぐ後ろをマリアが歩いているという勇者御一行みたいな陣形である。
これでは俺達が野郎に従えられているみたいな図のようで若干の不満を覚えなくもないが、俺が真ん中にいるので敢えて何も言うまい。
だってこれ絶対この位置が一番安全だもん。
俺だけ素人な上に丸腰なんだぞ、化け物の巣窟と聞かされてビビらない自信がないっつーの。
ていうか、
「もしかして、あの森の中に入んの?」
川に沿って歩く進行方向、数百メートル先には森のようなジャングルのような木々の密集地帯が広がっている。
どう見ても川はその中に続いていて、秘境っぽさがヒシヒシと伝わってくるあの場所を目指していることにうっすら気付いてしまった。
「黒霧谷があるのはあの森の奥だ、当然だろう?」
こちらを振り返ることなく答えるバンダーはこの手の探検にも慣れているのか何気ない風だ。
素人の俺にとっちゃ逐一心の準備が必要なわけだが……しかしまあ、森やら山やらに縁のある異世界生活だなおい。
「そういや聞いてなかったけど、マリアは行ったことないのか?」
「…………(フルフル)」
後ろ、というかいつしかほぼ隣を歩くマリアは小さく首を振る。
最初に聞いておくべきことだったことに今気付いただけに、むしろ行ったことあると言われた方がショックだったのでまあ良しとしよう。
そんな感じで川沿いをしばらく歩き、やがて木々の密集地帯へと足を踏み入れる。
今までこの世界で経験してきた森や山よりも視界を遮る物の比重が多く、木が多いだけではなく草も乱雑に茂っていて見通しが悪い。
そして日の光が遮断されつつあるせいかやけに肌寒いのも薄気味悪い印象に拍車を掛けていると感じるのは気のせいというわけではあるまい。
薄暗く、ひんやりとしている空気は必然緊張感へ直結し、どう考えても安易に近寄らない方がいい場所というゾクゾクとした雰囲気を直接肌へと伝えてきていた。
加えて言えばちょいちょい肌に触れる雑草が非常に不快だし、頻繁に視界に入る蛾やら蜘蛛やらがすげぇ気持ち悪い。
「…………」
なんで二人は平気そうなんだろう。
バンダーは手で草木を掻き分けながら淡々と足を進めていくし、何度振り返ってみてもマリアですら全く変わらぬ様子で黙って付いてくるだけだ。
これじゃ俺がすげえヘタレみたいで嫌なんだけど。
「止まれ」
不意に、バンダーが立ち止まり片手を伸ばして俺達の動きを制した。
そして何事かと問う間も無く、キョロキョロと辺りを見回したかと思うと、不吉な事を言い始める。
「……何かいるな」
「何かって……何?」
「それが分かれば苦労はないさ。だが、気配からしても大した奴じゃないことだけは確かだろうぜ」
何をワケの分からんことを言ってるのかと後ろから蹴りでも入れてやろうとしたその時、思い掛けず足のみならず全ての動きが止まる。
不意に辺りに響いた羽音らしき何かにビクリと全身が固まり、次の瞬間に目の前に現れたそれが恐怖以外の感情を奪っていた。
バサバサと、激しい音を合図に上空から行く手を塞ぐ様に飛び出してきたのは異様な生物だ。
蝙蝠みたいな頭部と鋭い牙や爪を持つ、緑色の馬鹿でかい鳥。そう表現する他ない、完全なる化け物が二匹、俺達の進行方向で羽ばたいている。
「なんじゃありゃぁぁぁぁ!!」
本能が逃げろと告げる。
あまりの恐怖に絶叫しながら俺が咄嗟に取った行動はマリアの後ろに隠れることだった。
女の子を盾にし、女の子の腰にしがみつき、半泣きの俺ってマジ格好いいよね。
「ったく、何を取り乱してんだか。そっちの声に驚いちまったよ」
直後に聞こえたそんな声。
やけに冷静な口調に恐る恐る顔を覗かせると、巨大蝙蝠風の化け物が『キィィィィィ』という鳴き声を上げながら血を噴き出し地面に落下していくのが見えた。
ほとんど真っ二つになる寸前の傷を負っている化け物はピクピクと痙攣する様な状態で横たわり、やがて息絶えたのか完全に動きを失う。
そしてバンダーの手には携えていた剣が握られており、その両方を見てようやく奴が斬り殺したのだと理解した。
あんな化け物をしれっと倒してしまうとは……あいつ口だけ男じゃなかったのか。
「あの程度でビビってどうする少年ユウキ、そんなことじゃあこの先が思い遣られるぜ?」
剣を鞘に仕舞うと、バンダーは振り返って肩を竦める。
言いたいことは分からんでもないが、先が思い遣られるってのはむしろ俺が一番感じてるっつーの。
「はっきり言っとくけどな、俺は一般ピーポーなんだよ。急にあんなん出てきたら普通にビビるわ」
「ここからは先はもっと難儀になる。精々死なないようにだけはしてくれよ」
「そりゃ頼まれなくてもそれに全力を注ぐけどだな……ていうか、マリアは平気なのか? ああいうの」
そもそもこいつ驚くことも逃げようとすることもなく、それどころか武器持ってるのに戦う素振りすら一切見せてなかったんだけど。
「…………全然、平気」
「嬢ちゃんの方は肝が据わってるな」
「うん、いや……そういう問題なのかこれ」
確かに何のリアクションも無かったし動揺の欠片もなかったけど、それはもう度胸があるとか肝が据わってるというよりも怖いとか驚くとかといった感情がそもそも無いんじゃないかとそろそろ怪しくなってきている気がする。
最初から最後までボーッと見てただけだぞマリア。
「さ、目的地まではもう近い。日が暮れる前に帰るのが賢明だ、早いところ行くとしよう」
俺の疑問も何のその、バンダーは再び背を向け勝手に歩き出していた。
帰りたさが半端ないが、ここまで来て怖いから帰るでは情けなさ過ぎる。
俺だって曲がりなりにも魔物が普通に存在するこの世界で幽霊やら鬼やら巨大猪とやり合ってきたんだ。そう簡単に日和ってたまるかってんだ。
まあ……やり合ってきたと言っても逃げるか他の連中が倒しただけでしかないんだけど。
「悠希……大丈、夫?」
未だ腰にしがみついた体勢のままの俺の顔をマリアが覗き込んだ。
中二仮面を装着しているので表情は隠れて見えないが、恐らくはいつものキョトンとした不思議そうな顔をしているのだろう。
敢えて補足するならばきっとマリアは俺が何にビビってるのかすら分かっていなさそうだ。
「なんとか大丈夫ってことにしておいてくれ、ちょっとびっくりしただけだから。だけど……何かあったらどうか俺を守ってください」
「ん……守る、心配いらない」
ああ、何て良い子なんだマリア。
そして強がる俺ってなんて馬鹿なんだろう……。
もはや引くに引けなくなっているだけ感が尋常ではないが、それでも嫌々立ち上がると再びバンダーの後を歩くしかない哀れな俺。
奥に行くにつれて木々も深くなり、川という道標がなければ既に一人で帰ることすら出来ないんじゃないかというレベルの秘境っぷりである。
そうしてマリアにピタリと寄り添いながら五分ほど進んだ頃、俺達はようやく長らく続いた川の終着点へと到着した。
静かな森の一角にあったのは滝だ。
大きさも高さもそれほどなく、静けさも相俟ってその風景はどこか神秘的にすら感じられる。
とはいえ、さすがにこれを登るのは無理があるだろう。
そうなるとここが黒霧谷ということになるのか? どう考えても谷という感じではないのだが……。
「滝壺の脇から岩場が続いているだろう、あれを辿って滝の裏側に回り込むんだ。洞窟状になっていてな奥に進めるようになっている、そこを抜けた先にあるのが黒霧谷さ」
疑問を投げ掛ける俺に対し、バンダーは流れ落ちる滝を指差した。
確かに横の方から人が通れるぐらいの幅がある岩場が続いていることが分かる。
この位置からでは見えないが、要するに崖の中を通れるようになっているということか。
「ふぅ……」
ここから先に進んでしまえば、いよいよ恐怖体験も佳境に入る。
覚悟を決める意味の息を大きく吐いて『よし』と一言呟いた。
今回は花を取ってくるのが目的であって化け物を退治しないといけないわけじゃない。
いざとなったら逃げればいいだけだ。バンダーはともかく、俺自身も当然だしマリアに怪我なんてさせたくない。
最優先するべきは無事で帰ることだ。それだけは絶対に間違えない。
覚悟だけではなく、決意も新たにしたところでバンダーと顔を見合わせ頷き合い、俺達は未知なる領域へと足を踏み入れるのだった。
しかし……全てにおいてノーリアクションのマリアちゃんは事の深刻さを理解しているのかな。