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8 人は変わる

「とびついた」

 理解が追いつかなくて、ただ機械的に繰り返したあたしに、ミクちゃんはうなずいた。

「その手があったか、そりゃあいい、そうしよう。そんな感じ」

 そんなことってあるだろうか。そんな屈辱的ともいえる状況を、自ら望んで受け入れる女がいるだろうか。

 そしてあたしはミクちゃんを知っている。この人は、そんなプライドのない女ではない。

 ミクちゃんはなんでもない顔でじゃれかかるパクラヴァをあしらいながら、「もううんざりしてたんだ」と言った。

「別れるなら別れるでいい。しかたない。でも、クサい言い方だけど身を斬るような思いで決心して、決行して、忘れようと頑張っているのに、しばらくすると来るんだよねえ。やっぱり君なしの毎日なんて考えられないとかなんとか」

 真剣さと熱と勢いに負け、それならばとやり直そうとする。

 すると今度は彼女さんがわあわあ言ってくる。

「……わあわあって?」

 おそるおそるあたしは尋ねた。だってあの人だよ? あの人がやる「わあわあ」だよ。

「まあ、電話がかかってきたりとか」

「なんて言われたの」

「さすがにそれは子供には言えない」

「なんで番号知ってるの?」

「さあ。彼は自分じゃないって言ってたけど」

 どうにかして調べる方法は、ある。

 その他、上京してミクちゃんの住む女子会館(女子寮みたいやつ)まで押しかけたりもしたらしい。厳しい寮監に追い返されたけど。で、憤懣やるかたないままうちに来た……ということらしい。

「さすがに学校には行かなかったんだ」

「それは……彼氏にやられたねえ」

「えええ?」

「連絡を絶ってみたことがあってねえ。電話の類を一切無視していたら、校門で待ち伏せされた。騒がれた」

 うーん、それは相当恥ずかしかったのでは。

「終わらないの。延々と続くの。別れると決めても、続けると決めても、どちらかが騒ぐの。どっちに決めても解決しないって何この理不尽。頭がおかしくなりそうだった。そのうち、あんたを巻き込むようなことになって……うん、あれはけっこうな衝撃だった。私に来るならいい。でも、家族にっていうのは耐えられない」

 まるで他人の話をするかのように淡々と語っていたミクちゃんのまなざしが、このときだけ厳しくなった。

「私は、日常生活を取り戻したかった。憧れの大学にようやく合格して、やりたいことがいっぱいあった。なのに練習も勉強も、ちょっとした遊びすら手につかない。こんなのはもう嫌。彼が両方と付き合うことで、ひとまずの平穏が訪れるなら、それで良かった」

 うーん、と伸びをしてミクちゃんは、

「やってみたら、とりあえず日常は静かになって、ホッとした。本当に。息ができる感じがした。そうは言っても、ところどころ思ったよりつらくて、びっくりしたけどもさ。それでも別れる別れないでぐちゃぐちゃするよりは、マシだった」

「……それが、いまになって、どうして」

「人の心はね、変わるの」

「気持ちが冷めるっていうこと?」

「ちょっと違う」

 どんなことにも慣れる。日々を重ねるうちに当たり前になってしまう。

「最初は、申し訳なさそうだったんだよ。私にこの状況を強いることに」

 長い休みのたびに、彼は必ず帰省した。親から厳命されていたから。

 はじめのうちは、さりげなく帰っていた。何も言わずに。暗黙のうちに。それが……

「だんだんと、わざわざ宣言するようになった。来週から行くとかなんとか」

「なんで?」

「私の反応を確かめていたんでしょう」

「そんなことしてどうするの?」

「自分が愛されているのを確かめたかったんじゃない?」

「不安だったから?」

「いやそうじゃなくて……」

 ミクちゃんは「この言い方でわかるかなあ」と首を傾げた。

「悦に入る」

 あたしは、パクラヴァが天敵のシェパードを見つけたときのように唸った。

 ふざけてんのか、彼氏さんよ。パクラヴァの餌にしてやろうか。

「まあそんな顔しないで。こんなん、けっこうカップルあるあるなんだからさ」

「嘘」

「いやほんとに」

 わざと嫉妬させるというタチの悪い駆け引きがあるのだそうだ。

 なんだそりゃ。わからん。わかりたくない。

「でもやっぱり、こういう状況の人にやられるとたまらないものがあるよね。そのうちスプレイ行為も始まったし」

「なにそれ」

「この子、散歩のときやらない? 電柱におしっこひっかけるやつ。ここは自分の縄張りだぞって」

 洗面所の歯ブラシ。鏡の脇のヘアピン。クロゼットの隅っこにレースのポーチ。

「あいつ、こっちに来てたの?」

「来てたみたいね」

 あたしは立ち止まって、叫んだ。

「約束違反じゃん!」

「うん。私もそんなようなことを言った。そしたら……」

 なんと返事したのか、聞きたくもあり、聞きたくないようでもあり。

「約束したのはお前とお袋だろう、俺は知らないって」

 ミヨちゃんは知らないに違いない。でなきゃ手紙を預かったりはしないはずだ。蹴りのひとつも入れて追い返しているはずだ。

「ま、私の表情の変化を見て、大急ぎで謝ってたけどね。もうしないって」

「でもやめなかったんだね」

「だんだんとわかってきた。向こうがそうやって痕跡を残していくのを、彼は、知っていて、あえて残していたんだなって」

 見つけて顔をこわばらせる恋人を見るのが楽しくてたまらなかった。

 自分はこんなにも愛されている。二人の女から求められるほど、自分はこんなにもいい男である。それを味わうように。

「わかってくると、怒るのもバカらしくなって。キリがないから。何度も同じこと言いたくないし」

 すると彼は、「自分に嫌われたくなくて言いなりになっている」と解釈し、もっと大胆な行動を取るようになった。

 学生街を、彼女さんを連れ歩くようになった。

 自分はこんなにも愛されている。二人の女から求められるほど、自分はこんなにもいい男である。周囲に見せつけるように。

「なんでそんなことができるんだろう」

「でもまあ、代償は大きかったと思うよ。子供時代からの親友に見つかって、絶交されたそうだから」

 親友氏とは、確かミヨちゃんの友人の彼氏。二人が出会う糸を繋いじゃった人。

 場面が浮かぶようだ。

『なんだよお前ら。なんでコイツこっちにいんの? 東京には来ない約束だったんじゃねえの?』

『向こうの彼女が、どうしてこんな無茶苦茶な状況を飲み込んでると思ってんだよ。なんでケガさしたお前が約束破ってんだよ。向こうの温情で被害届出されずに済んだんだろうが』

『違うって。どっちの味方とかそういう話じゃねえんだって。……悪い。俺、これからお前らとの付き合いは遠慮する』

『あっちともこっちともズルズル続けるようなだらしねえ人間と関わり合いたくねえんだよ!』

『ああ、もういい。やめてくれ。言い訳とか聞きたくねえ。これからは、どこかで会っても声かけるなよ。……んじゃ』

 去っていく親友氏の背中を眺めながら。彼氏さんは、後悔しただろうか自分の行いを。だったらいいなと思う。

「その話を友達の友達を経由して聞かされたとき、なんか、こう目の前の霧が晴れたような気持ちになった。いつのまにか、いろいろ、わからなくなってたんだなあって」

「たとえば、どんなこと」

「うーん……あの人、すごく変わった。私に対して、すごく横柄というか、上から目線で行動するようになってた」

 約束を破ったり。自分の行動に無理矢理に合わせさせようとしたり。

「こいつは俺に惚れているから、少しくらい雑に扱っても大丈夫だろう、俺の言いなりになるだろうって感じかなあ」

 ミクちゃんが怒るとハッとして謝る。けど、基本的な物の見方考え方は変わっているようではない。だから改まらない。何度も繰り返す。

「そういうふうにしてしまったのは私なんだろうなあって」

 あたしらでさえ、そう思ったのだ。ミクちゃんはよほど惚れているのだろうと。

「まさか、罪悪感なんか感じてないよね」

「さすがにそこまでアホではない」

 ミクちゃんはちょっと笑った。

「けど、うんざりしていたのに、別れようとは思わなくなってたあたり、アホだった。どうしてだろう。選択肢になくなってた」

 それだけつらい思いに慣れっこになっていたということで。

 嗚呼。鉤の形になった指であいつの頬を切り裂いてやりたい。

 いまからでも行ったろか。ミヨちゃん連れて。右と左の両方にざっくりと。

「でも、また、彼氏さん来るんじゃないの? ミクちゃんを追いかけて。そしたらまた同じことになるんじゃないの」

「大丈夫。だって私が日本にいないもの」

「へっ?」

「あれ、聞いてない? 私、留学するの」

「えええええ。どこに?」

 んふふふ、とミクちゃんは笑った。

「どこだと思う?」

「まさか……ポーランド?」

「ぴんぽん」

 出たよショパン!

 ミクちゃんを語る上で、実は欠かせない要素が、凝り性のめり込み体質だ。

 たとえば……ミクちゃんがまだ実家にいた頃、食事当番がミクちゃんだとヒヤヒヤしたものだった。たとえば豚肉生姜焼きにハマると、ひたすらそればっかり作るのだ。

 当人に言わせると、タレをあらかじめ絡めるとか、焼いてからかけてみるとか、生姜はすりおろすとか、スライスするとか、奥が深いそうなのだが、あたしにしてみりゃどれも生姜焼きだ。

 そんなミクちゃんが近年、情熱の全てを傾けている相手が、ショパンなのだ。

 もともとそんなに好きでも嫌いでもなく、モーツァルトやベートーヴェンと同じ扱いだったらしいが。ある日「ショパンを弾くために生まれてきた」と称されるピアニストのリサイタルで、すっかりショパンに恋をしてしまったのだそうだ。

 音大生だもの、ショパンの楽曲の音源やら楽譜やらをあらゆるバージョンで収集するっていうのは、まだわかる。関連書籍を読み漁るのも。

 しかしポーランド史を紐解いたり、ポーランド語を学んだりするに至っては、なんかすごくない?

 ポーランド旅行にも、もちろん何度も行っている。

 あたしが毎朝ホットミルクを飲んでいるのは、お土産のポーリッシュ陶器だ。

 このゲロしんどい恋のかたわら、そんな熱狂を忘れないミクちゃんがあたし好きよ。

 でも、ある日お母さんとミヨちゃんが夜中に話しているのを聞いてしまった。長期休みの間、嫌なことを考えないようにするために、何か熱中するものが必要だったんだろうって。だから言うなりに旅費を出してあげてたんだろう。

「彼氏さんから逃げるために留学するの?」

「まさか。留学すること自体は、ずっと前から決まってたの。だけど、基礎もできてないうちからショパンに特化するのはいかがなものかって教授が許可してくれなかったの」

「んじゃ、許可出たんだ」

 ミクちゃんは拳をつくって見せた。

「ピアニストにはなれなくても、留学コーディネーターとか、観光ガイドとか、輸入雑貨店とかね。そういうことできないかなあって」

 ミクちゃんは未来のほうを向いているように見えた。ワクワクしているように見えた。

「私が向こうにいる間にあの人は卒業する。そしたら実家に連れ戻される。そしたら結婚させられるでしょう、否応なしに。抵抗できる人ではない。そしたらもう逃げられない。私と関わったことで失ったものも多いだろうけど。これでひとまず元通りよ。私を悪者にして、二人で盛り上がったらいいと思う」

 ある意味めでたしめでたし。向こうには。

「ミクちゃんは、それでいいの?」

「うん。二度と会わない人たちのことだし」

 ミクちゃんはけろりとしている。

 あたしは割り切れない。

「納得できない。ひどい。あんまりだ。ミクちゃんばっかりが損しているみたい」

「損?」

 ミクちゃんがクスッと笑った。意地の悪い笑い方ではなかったのに、どうしてだろう。ミクちゃんが魔女めいて見えた。

「考えてみて。この件で、いちばんダメージが大きかったのって誰だと思う?」

「そりゃ……」

 言いかけて、続きが出なかった。誰だろう。

 ……ふつうに考えたらひとりになったミクちゃん。

 と、考えるべきなんだけれども。なんか、そういう感じじゃない。

 ……最初から最後までひとりにはならなかった彼氏さん?

 なんだかんだ言っても、この人はミクちゃんに惚れている。

 喪失感に苦しむのではないだろうか。男の人は引きずるらしいし。

 ……ひとりにならずにすんだ彼女さん?

 就職先は確保されたけれども。

 けどこの人、この先の人生で考えずにいられるだろうか。この人は、自分を何度も切り捨てようとしたのだと。自分が何も言わなければ切り捨てたままになったのだと。

 この先何年も一緒にいる間に。その事実が抱える毒が、じわじわ染み出してきたりはしないんだろうか。

 三人が三人ともに、それぞれに傷を負ったわけだけれども……

 誰がいちばんかというと……

 すくなくとも、ミクちゃんではない。そんな気がした。

 そうでないといいなという、あたしの願望は抜きにしても。

 どう見てもこの結末は、幼馴染ラブが一目惚れラブに勝ったという漢字ではない。

「会わなければよかったのに」

 そしたら、向こうはふつうに遠距離恋愛を育み、ミクちゃんはふつうに女子大生の生活を楽しみ、おかしな騒動は何もなかった。あたしも怪我をしなかった。

「うーん、そうかもしれないけどねえ」

「ミクちゃんはそう思わないの」

 驚いた。

「最初のほうは、楽しかったんだよ。神様ありがとう、会わせてくれてありがとうって、本当に思える日々だったんだよ」

 その残り香を追いかけて、ここまでずるずるきた。それほど長く後を引くくらい、強烈に芳醇な香りだったのだろうと、子供のあたしにも想像つく。

 だけど。

「だからこそ、私、自信があった。私のほうが愛されているって。ばかみたいだけど。今思うと、だからこそ、こんなばかなことをやってしまったんだと思う」

「いやばかじゃない。あたしもそう思う」

 彼氏さんの愛は大部分がミクちゃんのほうにある。情は彼女さんのほうに。

「でもそんなの、なんの意味もなかった。向こうと別れて私ひとりとだけ付き合ってくれる、ただそれだけのことすら実現させられなかった」

「これからそうなる可能性はないの」

 無言でパタパタ手を振る。この仕草が表す答え。「ないない」

 まるであたしの質問が「ミヨちゃん明日一緒にラジオ体操行ってくれるかなあ」だったかのような、確信と素っ気なさ。

「愛の強さは、こういうもつれた糸をほぐすためには、なんの意味もないんだ」

「……よくわからないよ」

「今はわからんでよろしい。まだ早い。大人になってから考えなさい」

「早いのに、なんで話してくれたの」

「ミサキさんに頼まれた」

 ママである。

「いつかあんたが、事の顛末を知りたがったら、話してやってほしいって。あんたが恋愛を怖がらないように。わからないから怖くなるんだって。わかってれば、気をつければ大丈夫だって思えるからって」

 変な教育方針だなあ。

 入院中に、ママが、いつかミクちゃんの気が済んだら終わるだろうと言っていたと教えたら、ミクちゃんは「さすが魔女」と唸った。

 それからは、いつ出発するのかとか、明日はどこに出かけようとか、これからの話をして、終わった恋愛の話はしなかった。

 ミクちゃんと並んで空を眺めながら、パクラヴァと一緒に風を感じながら。

 頭のどこかで「怖いなあ」と感じていた。

 選べないんだ。たぶん。親と子が互いを選べないように。恋も相手を選べない。

 できれば、そう遠くない未来にあたしに訪れるであろうやつは、そんなに大変でないのでありますように。どうしようもなくそうなってしまうのなら、せめてそのときの私に立ち向かう勇気がありますように。

 沈む夕日にそんなことを願ってしまった、夏のひとこま。


前章をアップしたのが2017年10月。

さすがに6年は長い。

読み返したら続きの展開を思い出せない。やべえ。

「確かあの頃はガラケーで書いていたはず」

探してみた。あった。けどコードがない。ついでにバッテリーも入ってない。膨張したから捨てたんだった。んじゃだめじゃん。がーん。

なんでこんな面倒くさい小道具で書いてたんだっけ。ああそうか。PCだと体を縦にしていなくちゃならなくて、それが無茶苦茶しんどかったからだ。

ガラケーならベッドに横になったまま書けた。

寝転がって書く用のPCデスクってのも買ってみた。(一万円くらいだった)

だめだった。数回使ってリサイクルショップに持ってった。(二千円くらいだった)

もしかしてバックアップ残してないかなあと、PCの一太郎関連ファイルを漁った。

あったんだなあこれが。

昔の私グッジョブ。

ここまで書いたんなら最後までやれやって言いたいくらいの状態まで出来てた。

なのに、いま二時間で完成させられた、その最後の仕上げが、あの頃にはできなかったんだなあ、そのくらい具合悪かったんだなあとしみじみした。

なんかとりとめがなくて、反省の多い作品だけれど、具合の悪い過去の私がそれでも必死に書いてたんだよなあと思うと削除する気にはなれなかった。

ブックマークしといてくれた人ありがとう。時間かかってごめんなさい。

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