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もういいよね

作者: おきのえいこ

盛り上がらないクラス会だった。会場はクラスのN君がやっている喫茶店。小学校五、六年生のクラス会で卒業から十二、三年たっていたので、普通は懐かしくて大いに話が弾むはずだ。言いだしっぺは誰だったのかな?気乗りがしなかったが、友達が当然行くものとしているので、何となく断れなかった。ぎこちない会話がそこここで交わされている。面白い男子がいっぱいいたクラスだと思っていたが-----今日は来ていないんだ。食べたり飲んだり喋ったりひとしきりした後の、しらっとした沈黙の中で、担任教師だったT先生が唐突に「おきのさんのお姉さんを、お嫁さんに欲しかった。」と言った。私は唖然として言葉も出なかった。なんでこんな時に?-----皆の前で?-----何故?-----二年間いたぶり続けた生徒の姉のことを?-----しかもたった一度私の卒業式に、法事で実家に出かけた母の代理で出席しただけの姉を?-----誰も一言も発しなかった。-----これ以上このことは考えたくもなかった。心底、姉が結婚してくれていて良かったと思った。考えないでおこう。このことはもうこれで終わり-----自分に言い聞かせた。


 小学校四年生の六月末、I市から明石の小学校に転校して来た。物心ついた時から父は警察署長をしていて官舎住まいだった。神戸の水上警察署長になった時、官舎が戦災で焼失していたため、急遽、明石で官舎代わりの家を求めたそうだ。その後、I市の警察署長をしていた五年程の間の多くの時間、明石の家は空き家になっていた。父が警察を退職した昭和二十九年六月、明石に引き揚げて来た。父は実に働き盛りの四十九歳での退職だった。

 時の政府は、アメリカ占領軍から押し付けられた自治体警察組織を、現在の警察庁を頂点とする、強固な組織に変革することを決めた。警察は官僚組織の最たる処。トップが替ったり組織が変わったりすると幹部は全部辞めるのが習いだった。父は県警本部に帰ってくるよう慰留されたが、考える処があったようで、後進に道を譲るという大義名分のもと、退職に至った。

 ここから、私の生きづらい学校生活が始まることとなった。転入したのはU組。年配の女性教師で、よく声の通るシャッキとした先生だった。最初に声をかけてくれたのがNさんとKさん。すぐ仲良くなったが、この二人は、クラスの大柄な女ボスとゴリラのような配下の女子と対立していたようで、否応なく私も巻き込まれることとなった。彼女達が些細なことで言い争いになると、一緒にいる私も追いかけられたりした。しかし追いかけられたり悪口を言われたりはあったが、二学期の成績が良かったので、先生の口から「皆も負けないように頑張りなさい」と伝えられたので、それ以後は、表立って私をターゲットにしていじめられることはなくなった。I市で普通に話していた、ソフトで大阪より少し品の良い大阪弁を、男子に「大阪弁臭いぞ」とからかわれたり、男子と女子があまり仲良くないのも気が重かった。クラスになじめないままの日々が続き、ある日U先生が盲腸炎で入院手術されることになった。その間代替の先生が来られていたが、U先生は腹膜炎を併発され、入院が長引くことになった。その結果クラスが四つに分かれ、他のクラスで授業を受けることになった。私はS組へ。初めは憂鬱だったが、女ボス達と離れることができホッとした。S先生は私にとって初めての男の先生だった。S先生は歴史や戦争の話を、虚実取り混ぜてよくしてくれた。真面目な女の先生がしない、嘘っぽい話が面白かった。よそのクラスに居候して、決して居心地は良くなかったが、束の間の安らいだ時間だった。


 そして五年生になった。始業式の日、クラス替えがあるので、どんな先生になるのか、どんな子と一緒のクラスになるのか、不安でいっぱいになりながら登校した。朝礼の後クラス発表があり、Tという男の先生のクラスになった。攻撃的な女子とも離れることができ、肩の力がス~ッと抜けていくような心地だった。家に帰っても母に「T先生という男の先生のクラスになったよ」と嬉しくて嬉しくて上機嫌で話した。もうこれでいじめられたり、クラスがバラバラになって他のクラスに行くこともないんだと安堵した。

 珍しく高校二年生の姉が帰っていた。いつもはクラブ活動だ何だと、こんな時間に家にいることはなかった。さすがに高校も始業式なのでクラブ活動がなかったようだ。四時頃、母と私がいつものように買い物に出かけようとすると、姉も一緒に行くという。姉は無類の怖がり。一人で家の留守番をしたくないのだ。三人連れだって、いつもの道を通り、小学校への三叉路の手前にさしかかったところで、思いがけず担任になったばかりのT先生にバッタリ出会った。ドギマギしながらも先生に母を紹介した。母が一生懸命に「おきのえいこの母でございます。えいこをどうぞよろしくご指導くださいませ。T先生のクラスになったと、とても喜んで帰ってきました」と挨拶していたその時、姉が私に小さい声で一言。「小さい先生やね」・・私はハッとした。母と話していた先生が、唇の端をキュッと歪めて不愉快そうにこちらを見た。母は気づかずに話している。挨拶を終え先生と別れてからも胸がドキドキしていた。姉の馬鹿さ加減が恨めしく、ため息が出た。本人は悪いことを言ったとも、先生に聞こえていたとも、これっぽっちも思っていない。悪気のない極楽とんぼ。でも馬鹿で失礼な言葉。・・・・・母には言えなかった。

 翌日、不安な気持ちで登校した。朝のホームルームで先生は開口一番「挨拶もできない親がいる」一瞬頭の中が真っ白になり、クラクラして息が苦しくなった。・・・・・母さんはちゃんと挨拶した。一生懸命挨拶していたから姉の言葉が耳に入らなかったんじゃないか。それとも母に姉の言葉が聞こえていて、聞き咎めて、叱っていれば溜飲が下がったのか?もっと気まずい雰囲気になったんじゃないのか。頭の中で必死に母の弁護をした。心がザワザワざわついた。先生は、誰の親だとも、「小さい先生やね」と言われたとも話さなかった。母に報告できることでもなかった。

 家庭訪問が始まった。その日訪問予定の家の道案内のため、私を含めた数人の友達と、T先生とで一緒に我が家に帰ってきた。茶の間には来客用の茶器と茶菓子が用意してありコンロのやかんから、小気味よい音をたてながら湯気が上がっていた。先生は玄関にも入らなかった。玄関の外の先生と上り框や式台を隔てて、衝立の前で応対する母。挨拶の後、母が「玄関先では何ですから、どうぞおあがりください」と客間に案内しようとするのを「もうここで結構です」と頑なに断り続け、ソソクサと帰って行った。「ああやっぱり」と思った。屈託のない友達は「おきのさんのとこは早よ終わったなあ」と言った。ドキッとする言葉だった。

 初めは表立ってどうこうということもなかった。授業中、ノートに板書している時や、小テストの時などに、何か視線を感じてふと目を上げると、射るような厳しい眼つきに出会うことがあった。初めての図工の時間に先生が「友達を描く」というテーマを出した。教室内を自由に移動して描いていいという。早速三人の男子が私の前に陣取って、私を描き始めた。それを見た先生は、あの嫌そうな、唇の端をギュッと歪めた顔で、私を睨みつけた。私が気に入らないようだった。

高学年になったからなのか、五年生になって通知簿が変わった。冊子のような「のびゆくこども」という副題で、生活面の部分はアンケート方式で、設問に対して自分で該当するものに〇をつけていく。たとえば「廊下にごみが落ちていたら拾いますか?」など。潔癖すぎるとか、神経質すぎると家族から言われることもある私は、汚いものを触ることができない。でもその分、ごみを捨てることは絶対といっていいほどしない。汚いものを触ることができない・・・・・と言いながら五年生になって、二階のトイレ掃除当番が加わり、その時は、うんちの混じる汚水を便器の中に捨てる必要があった。汚水で手が汚れることはいつものことだった。でもそんな時は当番の一人として、一生懸命汚水と闘った。考えれば考えるほど、困り果てたが、適切な回答がなくても何処かに〇を入れなければならないのは嫌だなあと思いながら、たくさんある設問に正直に回答して冊子を提出した。

 「明後日からやっと厳しい眼つきから解放される」と夏休みを心待ちにしていた。夏休みの前日。下校時T先生が「おきのさん。君が一番家が近いから、夏休みの間クラスの十姉妹を持って帰って世話して」有無を言わさず言い渡された。私は小鳥を遠くから見るのは別に嫌いではないが、触ったり世話をするのは苦手だった。あの小さな羽が舞い上がるのが嫌だった。ゾクッとして、腕にサッとさぶいぼが出る。そんな私が四角い大きな籠に入った二羽の十姉妹と、缶に半分ほど残った粟とともに帰ることになった。Y君の家の方が近いのに・・・・・でも言えなかった。四十日が憂鬱になった。父が何と言うかも気になった。しかし父は玄関に置かれた鳥籠を見ても何も言わなかった。良かったあ。一安心。父に何か言われないよう、玄関先を汚さないように気を付けて世話しよう。小鳥が籠から逃げないようにしなければ。あれこれ考えると気が重かった。

 翌日の一学期の終業式。通知簿を見て驚いた。散々の成績だった。T先生の肉筆で書かれた評価でも「奉仕活動ができないお子さんです。休み中に家の仕事などもさせてください」とあった。どんな奉仕活動を私はしなかったのか?友達はどんな奉仕活動をしたというのか?家での手伝いは小さい時からちゃんとしている。打ちのめされた終業式だった。

 毎朝の小鳥の世話は緊張を強いられる仕事だった。籠の中の餌入れ、水入れ、青菜入れなどを小鳥が逃げないよう慎重に、素早く取り出し、敷いてある新聞を取り替える。容器を洗って、新しい粟、水、青菜に替える。何度も籠の扉を開けるので、十姉妹に触れないように、逃げ出さないように・・・・・全部の手順を終えると、ホッとする。こんなに注意していても、籠から十姉妹が逃げ出すことがあった。逃げ出すことも考えて玄関扉も、式台の上の障子も閉めていたので、戸外には出なかった。十姉妹は羽ばたいて天井近くまでとんでいき、小さな羽毛が舞った。私の金切声で母が跳んで来てくれ、ソ~ッと捕まえて籠に戻してくれた。長い四十日だった。最後まで十姉妹になじめなかった。こんな思いをしたのに夏休み明けに鳥籠を持って登校した私に、T先生は「大変やったな」や「ご苦労やったな」の一言もなく、十姉妹のことには一切触れず完全に無視した。割り切れない思いがした。粟や青菜を我が家で負担していたので、母にも申し訳なかった。

 憂鬱な二学期の始まりだった。Iさん、Jさん、Mさんなど仲良しの友達ができて、時々お互いの家にも

遊びに行くようになった。Iさん、Jさん、Mさん・・・・・三人の家には、たまにT先生がやって来て、お母さんやお祖母さんとお喋りをしたり、食べたり、飲んで帰ることもあるという。驚いた。何という違いなんだろう。

 私の家の北側に東西に細長く雑木林が広がっていた。大きな藪椿の木があり、春先には赤い花がたくさん咲いて綺麗だった。ある日クラスのK君、S君、Y君・・・・・私はこの三人を秘かに悪ガキ三人組と名づけていた・・・・・がこの雑木林にやって来た。そして椿の木に登って遊び始めた。椿の木からは丁度我が家の茶の間が見えたようで、たまたま茶の間にいた私に「家の中全部見えとうで」とか「焼き芋食べとうやろ」とか言ってからかい始めた。私が相手にしなかったので、つまらなくなったのか暫くしていなくなった。家に帰ってまで悪ガキの言動に振りまわされるなんてうんざりだ。

 二学期になっても、私に向けられるT先生の厳しい眼つきは変わらなかった。そんなある日、猛烈な腹痛と吐き気に襲われ学校を休むことになった。母に付き添われて市民病院の小児科を受診した。医師は問診と「ここは痛いか?」「ここはどう?」と長い間触診した後「軽い盲腸炎でしょう。注射と薬で散らしておきましょう。それで腹痛も治まるでしょうが、何かあったらすぐに来てください」と言われた。注射をした頃には、ひどかった吐き気も腹痛も、少し良くなっていた。盲腸炎?と思ったが、厳しい眼つきにさらされ、いつも緊張している教室から解放されて嬉しかった。母と一緒にお濠沿いの道を歩きながら、久し振りに気持ちが安らいだ。病気になるのも悪くない。病気が治って再び登校し始めたある放課後、図書館を出て裏庭にさしかかると、Y教頭に出会った。挨拶しようとすると突然「あんた、ここから出入りしとうやろ。ここは通ったらあかん。あんたとこのお父ちゃんにも言うとき」「あんた」と呼びかけられたが、明らかに私のことを知っているようだった。今まで一度も話したことのない教頭だ。あまり忘れ物をすることはないが、

忘れ物をした時は、授業に遅れないよう、破れて垂れ下がってしまった鉄条網を超えて、近道をして取りに帰ることがあった。父も含めた近所の人達も通っている。どうして見かけた時に直接注意せず、子どもの私にだけ「言うとき」と大人の分も責任を押しつけるのか・・・・・多分T先生からY教頭に話があったのだろう。あの子だと顔まで確認していたのだ。勿論、父に話せることではなかった。両肩にズッシリと重荷を背負った感じがした。

十二月半ばにIさん、Jさん、Mさんと我が家でクリスマス会をした。二番目の姉がツリーの飾りつけをしたり、クリスマスケーキを買って来てくれた。ケーキを食べたり、紅茶を飲んだり、お喋りをしたり、レコードをかけて一緒に歌ったりと楽しいクリスマス会だった。この時は三人を仲良しの友達だと思っていた。それが嬉しかった。

 二学期の通知簿も散々だった。Iさん、Uさんなど優秀な女子のいるクラスなので、相対評価の成績が芳しくないのは、ある程度は予想していた。それにも増して生活面の評価が恐かった。やっぱり。「算数的なお子さんです」という文字が目に飛び込んできた。心臓をえぐられるような痛みを感じた。母には見せたくなかった。算数的とは損得勘定で行動するという意味だとすぐに分かった。どんなことがあってそう判断したのか、具体的な説明はなかった。算数的という言葉について、母は何も言わなかった。

 三学期になって程なく、T先生が「席替えをする」と言った後、続けて「真ん中に悪い子の席を創る。この席に座った子は一週間よく反省して、また座ることのないように」一瞬ざわついた。六つほどの席で、最初は授業中騒がしかったなどの理由で男子が多く座らされた。そして一週間後。悪い子の席に座る名前が発表された。「おきの」クラスがザワッとなった。後は耳に入らなかった。私のどこが「悪い子」に該当したのか説明はなかった。屈辱と悲しみでいっぱいになった。そこまで私が憎いのか。その日どう過ごしたのか全く覚えていない。重い気持ちで帰り支度をしているところに、悪ガキ三人組のS君、Y君がやって来て言った。「昨日の放課後T先生とMが、悪い子の席に『おきの』を座らそうと話してたで。Jも傍でニコニコ笑っとった」収まっていた屈辱と悲しみが再び怒涛のように襲ってきた。叫びたかった。大声で泣きたかった。涙を必死でこらえた。MもJも本当の友達だと思っていたのに。明日からどんな顔で登校して、どんな風に過ごせばいいのだろう。思いっきり泣きたかったが、家にも大声で泣ける場所はなかった。母に知られたくなかった。悪い子の席は三週目も存続した。ところが何の説明もなく四週目にその席はなくなった。それはまるで、私をその席に座らせて屈辱を味合わせるのが目的だったから、もう充分その役目を果たし、必要がなくなったというかのようだった。

 母と買い物に出かけた時、母がポツリと言った。「この頃Jさんのお母さんに挨拶してもプイッと他所を向いてしまうのよ。どうかしたのかな?」私にはその訳が分かっていたが母には言えなかった。一体T先生はJさんの家で、私や母のことをどう話しているのだろう。母にまで影響が及んで心が痛んだ。

 三学期も終わりに近づいた頃、六年生の教科書の販売があり、千円足らずの金額だったが学校に持って行くことになった。当時女子の服にポケットがあまりなく、仕方なく防寒着のポケットにお金を入れていた。業間体操で校庭に出る時、うっかり防寒コートを椅子の背に掛けたまま出てしまった。短い時間だったが、体操を終えてクラスに帰ると、あちこちの席から「お金が無くなっている」と声があがった。慌ててお金を捜したが、私の教科書代もなくなっていた。大騒ぎになった。しかし、その後T先生から母に連絡や説明は一切なかった。被害に遭った他の友達の家庭にも連絡はなかったのだろうか?このことが私の頭をよぎった。翌日、訳知りの女子から「先生には誰が盗ったのか大体わかっているそうよ。でも盗ったところを見ていないし、盗られたお金が見つかったわけじゃないから何も言えないんだって」どうしてこの子はこんなことを知っていて、盗難の被害に遭った私や母には何も知らされないのだろう?素朴な疑問がわいた。盗られないようにするべきで、盗られた方が悪いのか。盗癖のある子が二、三人いると聞いたことがあったが、まさか自分が被害に遭うとは思っていなかった。クラスに盗癖のある子がいることを知っていたのなら、T先生は朝のホームルームで、お金をしっかり身に着けておくよう一言注意するべきだったのではないか。母のやり繰りする家計の大変さを知っていたので辛かった。母は私を責めることなく黙って、もう一度教科書代を渡してくれた。

三学期の通知簿。総合評価欄のT先生の文字。「病気で欠席したこともあり、何の賞も出せなくて残念です」まるで生徒を気遣った良い教師のような書きぶりだった。


 六年生になった。

T先生は係の活動を取り入れると言った。図書係、新聞係、飼育係、文芸係、整美係などなど。皆どれか一つ係に入ってクラスのために活動しようという。希望を聞いてなるべく、希望が通るようにしたいということだった。私は図書係か文芸係を希望したが、どちらも叶わなかった。女子で一人だけ新聞係になった。

 五年生の時、軽い盲腸炎を注射で散らしたことがあったがそれ以降時々、激しいおう吐や腹痛で学校を欠席するようになった。父や兄は「口が卑しいからだ」と私を責めた。客間に布団が敷かれ家族と隔離するように寝かされた。そんな時いつもある夢を見た。淡いミルク色の霧の中、誰なのか?年を取ったような男が私を追いかけて来る。私は必死で逃げる。男は顔全体が歪んでいるようで、頬の辺りを片手で擦りながら、韋駄天のように追って来る。必死で逃げる私。すぐ後ろに迫って、「だめだっ!捕まる!」と思ったところで目が覚めた。額や背中にビッショリと汗をかいていた。「うなされていたけど、怖い夢でもみたの?」と母がやって来てパジャマを替えてくれた。

 夏休みになった。当然のように十姉妹が我が家にやって来た。緊張の四十日の始まり。この夏はT先生が、希望者を姫路沖の家島にキャンプに連れて行ってくれるという。一泊のキャンプは初めてなので楽しみだった。キャンプ当日。家島までの大きな船も初めてだった。港を出てすぐに海の水の色がコバルトブルーに変わった。船のトイレも便器の下は直接海で、コバルトブルーの海のなかへ引き込まれそうで、怖くてできなかった。デッキは風があって涼しく、遠く小さく見える、船からの陸の景色も珍しかった。家島に近づくと海は浅くなり、コバルトブルーから透明に変わった。夏の強い日差しが海の中に差し込んで、背の高い茶や赤や緑の海藻が密生してユラユラ揺れているのが見えた。日本海の群青色の海しか知らなかった私はウットリと魅入った。船員さんが、姫路から家島まで電気や通信のケーブルが敷設されていると教えてくれ十センチ超の太いケーブルも見えた。家島に着いた私たちはキャンプ場まで歩いた。今日の宿はバンガロー

?校舎のような板敷きで、大きな窓の前には砂浜や海が広がっていた。困ったことが一つあった。トイレがお粗末なことだった。夏の陽光がトイレ全体に差し込み、便壺の中が丸見えなのだ。小はともかく、果たして大ができるのか・・・・・心配だった。それが気になって夕食に何を食べたかも覚えがない。食後みんなで真っ暗になった砂浜に出た。さえぎるものが何もない海辺では、いつも見ていた星々がより大きく、よりきらめいて美しく見えた。翌朝、朝食を食べ終わった後から、だんだんお腹が痛みだした。トイレに座ってみるが便壷の中や、隣のトイレの気配が気になって、便意はあるのに排便できずに出てきた。浜辺にいたJさんの隣に座り込んで、痛みをこらえていた。そこへT先生がやって来て「おきの何してるんや?」「おなかが痛くて」まで言った時、畳みかけるように「お腹が痛い?そんな仮病を使って何もせんとこ思ってるんやろ」憎々しげにそう言った。Jさんも一緒に座っているのに、どうして私にだけそんなことを言うのだろうか?他の友達も何か仕事をしているというのだろうか?お腹の痛みと悲しみで涙がこぼれそうになった。小学校生活最後の夏休みの、楽しかったキャンプが、いっぺんに惨めな辛い思い出に変わった。八月半ばの登校日にJさんから「T先生が『キャンプのお金が余ってるから、日曜日に家でカレーを作って食べよう。皆に知らせておいて』と言われた」と教えてくれた。先生の家に行くのはためらわれたが、行かなければ、何か言われそうなのでそれが嫌で行くことにした。できるだけ先生の傍に近づかないようにしたので、思ったより楽しかったしカレーもおいしかった。でも、男子は一人も来ていなかった。呼んだのに来なかったのか?初めから呼ばなかったのか?家に帰る道々そのことを考えていた。呼ばれなかったのなら、私は男子の分まで食べたんだと後ろめたかった。

 小学校生活最後の夏休みが終わった。二学期が始まって程なくクラス委員の選挙があった。T先生は「今まで同じような人が委員になることが多かったけど、立候補制にするから、やったことがない人も是非、勇気を出して立候補して欲しい。選挙の結果、もし希望する委員に選ばれなかっても、必ず他の委員になれるようするから」と言われた。この一言で選挙は俄然白熱した雰囲気になった。思いがけず、Kさんも立候補した。友達間の事情に疎い私の耳にも、嘘をよくつくとか、盗癖があるとか聞こえてくる。とかくの噂がある女子だ。喧々轟々、クラス中が興奮状態で選挙は終わった。私は興奮状態の中、Kさんのことをすっかり忘れていた。興奮状態はズ~ッと続いていたのか、その夜、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。昼間の選挙のことが思い出され、漸く、Kさんが何の委員にも選ばれなかったことに思い至った。私の思いは複雑だった。普通なら例え誰かが推薦しても決して投票することのないKさんだった。しかしT先生は必ず他の委員にすると公言したのだ。翌日のクラスでもそのことが話題になることはなかった。多分Kさんは勇気を奮い起こして立候補したんだろうと思う。狐目のKさんのお母さんの顔も浮かんだ。Kさんはお母さんを喜ばしたかったのではないか?褒められたかったのではないか?と思った。それだけに私の心は重かった。気づいた者がT先生に言うべきなのだが、私には先生に言う勇気はなかった。友達は気づいていないのか?そんなことはないはずだ。気づいても触れたくない話題なのだ。でも先生は違う。みんなの前で、あんなにはっきり公言したのだから、教育者として約束を守らなければならないはずだ。

 係の活動も続いていた。諦めて、希望しなかった図書係になった。本に触れていると気持ちが安らいだ。本の貸し出しをするのも仕事だ。貸し出し期間は一週間。ある時悪ガキ三人組のS君が貸出期限の日になっても本を返さなかった。何度か「早く返して」と催促したが返してくれなかったので、「もう帰るからかえしてもらうよ」と言いながらS君の机の中から本を取り出した。途端に「泥棒や。勝手に人の机を開けて本盗って」「帰る言ってるのに本を返さないからでしょう」教室に入って来たT先生は何も言わずに、私を見て唇の端をギュッと上げた。「泥棒」「泥棒」囃し立てるS君を残して下校した。これで終わりだと思っていた。ところがS君は四年生の妹の教室に行って「お前の姉さん泥棒や。俺の机勝手に開けて本盗っていったで」と友達の前で言ったそうだ。妹は学校から泣いて帰って来た。妹は家でも、もう一度サメザメと泣いた。母には経緯を話したから叱られなかったけれど、次から次へとわが身に降りかかってくる火の粉を払うのに心が折れた。

 また、腹痛とおう吐で学校を欠席した。客間に敷かれた布団の中でウツラウツラしていて、例の韋駄天のような人に追いかけられる夢を見た。いつも汗ビッショリで目が覚める。必死で逃げたからなのか?全身に疲労感を感じた。この夜八時を過ぎた頃、クラスのSさん、Kさんなど数人が家にやって来た。彼女達は

私が病気で欠席していたことを知っている。にもかかわらず夜分に、トラブルの犯人捜しのためにやって来たそうだ。応対に出た母は「Sさんの悪口を『おきのさん』が言いふらしているとKさんが言っているそうだけど本当?」「病気で寝ていると言ったのに、それでも言ったかどうか確かめたいと食い下がるのでね」と私に少し非難めいた表情で言った。家族は皆、家にいた。珍しく家にいた兄が、トラブルを聞きつけ枕元にやって来た。「お前なら言うかもな」枕の端を軽く蹴りながら言った。女の子ばかりの家を嫌って家にはほとんど寝に帰るだけの大学院生の兄。私の、いや妹の何を知っているというのか。最低の兄。この世の全てに怒りが込みあげてきた。翌日、昨夜のトラブルのため、まだ休みたかったが登校した。登校した時には、Sさんの悪口騒動はもう解決していた。やっぱりKさんの自作自演劇だったそうだ。Sさんへの悪口を咎められ、「おきのさんが言っていた」「Uさんが言っていた」と数人の名前を口から出まかせに喋ったそうだ。一緒に名指しされて家に押しかけられたUさんは、お母さんがきっぱり「うちの子は友達の悪口を言いふらすようなことはしません」と答えたそうだ。我が家とUさんの家、二つの家庭の対応の仕方の違いに愕然とした。大切に守られ、育てられているUさんが羨ましかった。

 三学期になった。「あと三か月」と自分に言い聞かせた。あと三か月我慢をすれば卒業できる。それが心の支えだった。なのにまたトラブルは起きた。真冬の寒い夜、外で父が大きな声で叫んでいた。何事かと声を頼りに出てみると、学校の焼却炉から大量の火の粉と、時折り、赤い炎も噴き出しているのが見えた。父は宿直の先生を呼びに行った。父とY教頭が一緒に帰って来た。教頭は焼却炉の上の小さな扉の隙間から、勢いよく吹き上がる大量の火の粉を見ても、「大丈夫。大丈夫。べっちょない。焼却炉の中で燃えているのやから。そのための焼却炉なんや」と父を小馬鹿にしたように、ぞんざいな口調で言った。父は火の粉が枯

れた葉っぱに落ちると危ないからと説明していた。私は胸がドキドキした。父が本当に怒ったら、広島の汚い浜言葉でどんな罵詈雑言が飛び出すかわからない。それが恐ろしかった。父は戦時中の一時期、某市の消防局長をしていたと母から聞いたことがある。父は常々「泥棒に入られることと、火事を出すことは我が家では絶対にあってはならない」と口にし戸締りと火の用心は徹底されていた。学校と接している家の西側と南角辺りは鉄条網と丈の短い竹垣になっていて、竹の枯れた葉っぱも混在していた。、父は火の粉による類焼ををいくつも見てきていた。だけど父は罵詈雑言を口にしなかった。堪忍袋の緒が切れる寸前だったが、辛うじておし止まってくれていた。思いがけないことだった。父が警察や消防署にどのように話したのか私には判らない。しかしY教頭は三月末を待つことなく、他所に転勤していった。私にはその原因が判っていたが、誰にも話さなかった。

 卒業式真近かのある日、教室の後の掲示板に席次が張り出された。周りに人が集まった。私も見に行った。一番から十番までだった。意外にも私は二番だった。一番はIさん。神戸の私立女子中学校に進学するIさん。妥当なところである。優秀なUさんが卒業式直前に転校して行ったので、私が二番になったようだ。その時後の方で「そらそうやな。二番以外は皆、先生のところで教えてもろてたんやからなあ」というO君の声が聞こえた。その途端私の全身からス~ッと力が抜けていくような感じがした。そして心が軽くなったように感じた。そうだったのか。そんな教師だったのか。保護者に信頼され、多くの家庭に出入りし、評価が高い先生だと思っていたから、二年間母にも言えず、一人で耐え忍んできたのだ。自分が担任している生徒を、しかもお金を取って勉強を教えていたなんて、到底信じられないことだった。教師が絶対してはならないことだ。子供の私でもわかることだった。

 小学校生活は劇的に幕を閉じた。亡き伯父の法事で実家に帰った母は、卒業式に出席しなかった。代わりに長姉が出席した。白いレースの襟がついた濃紺のワンピースに身を包み、真珠の短いネックレスを付けて輝いていた。私の心は、これで小学校とは縁が切れるんだという喜びと、安堵感に溢れていた。姉と二人学校を後にした。


五十数年間、このことは私の心の奥深くに封印してきた。考えたくもないことだった。その上、当時は社会の風潮として学校や教師に物申すことは許されなかった。教師は聖職という言い方もされていた。小学校でも、中学校でも体育会系(必ずしも体育の教師でなくても、運動会には陣頭指揮をする教師も含めて)の教師が男子生徒を手加減することなく、身体が吹っ跳ぶほどの殴り方をするのを、日常的に目にしてきた。しかし誰も問題視したり異を唱えたりしなかった。大勢の生徒が見ている前での出来事でもこうである。ましてや担任教師の二年間に及ぶ、私に対するいたぶりは、深~く、静かに、水面下で行われてきた。誰も気がついていなかった。ただ一人知っている人がいたとしたら、それはJさんだった。彼女はT先生と家族ぐるみ親しい間柄だった。Jさんの前でだけ、私への憎しみの感情を隠そうとせず、責める言葉を投げつけた。それはまるで、Jさんは他の友達には絶対に喋らないという確信があるかのようだった。このことが、T先生を絶対に許すことが出来ない最大の理由だった。私をいたぶっていることを先生自身、認めていた確信犯なのだ。五十数年間封印してきたことを、なぜ、今になって白日の下にさらすのか・・・・・・・・

 必死の子育てを終えても、日々仕事が忙しかったので幸いなことに、思い出すことがほとんどなかった。定年退職して、時間にゆとりができるにつれ色々のことを思い出したり、考えたりすることが多くなった。ベッドに入って眠れぬまま、五、六年生の頃のことを思い出し、ますます眠れなくなったり、ウトウトしかけて韋駄天もどきの人物に追いかけられた悪夢を再び見ることもあった。半世紀の時を経ても、五、六年生時の、PTSDに苦しめられている自分があった。終活の年齢になりやっと、カミングアウトして心を開放してから、彼岸への渡し舟に乗りたいと思うようになった。

 私がT先生の憎しみの対象になったのは、高校生の姉の「小さい先生やね」という一言だった。確かに失礼で、不愉快極まりない言葉だ。しかし言ったのは馬鹿な高校生で、自身は大人の教育者である。日本には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるが、姉の馬鹿な一言で、何の落ち度もない妹を、二年間もいたぶり続けることが、教育者のすることなのか。転校して来た四年生時には、成績優秀の賞状をもらった。五年生時の通知簿は成績はともかく、「算数的な子ども」「奉仕活動が出来ない」など厳しい評価の言葉であふれていた。二年間夏休みに十姉妹の世話をしたことは、全く評価されていなかった。私の一挙手一投足は厳しく断罪しながら、その一方で先生は自分の担任するクラスの子ども達を、自身の下宿でお金を取り教えていた。奉仕精神を多分に持っている教師なら、学校の教室で、無償の補習として教えるべきだ。保護者も一蓮托生。罪は重い。担任教師に教室外で勉強を教えて欲しいと臆面もなく、罪悪感もなく言えたのだ。それが信じられなかった。それだけではない。T先生は子ども達の前で公言した約束を平気で反故にした。これも教育者として絶対に許されないことである。

 二年間、度々、おう吐や腹痛や時には頭痛で苦しんだ。恐らく積もり積もったストレスに耐えられなくなった時、身体症状として現れたものだったと思う。この症状に苦しんだのはこの二年間だけだった。精神的苦痛が身体症状として現れるなどということは、当時ほとんど知られていなかった。父や兄は「口が卑しいからだ」と言い放った。教師も友達も信じられない。子供らしからぬ、深く暗い孤独。よく耐えたと今考えても不思議な気がする。

 後にも先にもたった一度だけのクラス会。あの時突然T先生が「おきのさんのお姉さんをお嫁さんに欲しかった」と言った。普通なら男子辺りから「Aさんが好きだった」「Bさんが初恋の人だった」などという告白がきっかけで話が盛り上がり、つられて先生も喋ってしまった。というのならまだわかるがそうではなかった。何故なのか???考えに考えて漸くわかったのは、機先を制して私の口を封じたということだった。あのクラス会で私が、過去の自分の仕打ちを皆に話し出すことを恐れたのだ。確信犯だったということがハッキリわかった。心が揺れ動き、悩み、迷い、逡巡しながらのカミングアウトである。「言ってもいいんだよ」と背中を押してくれた、長~い年月の力と、新しい風の流れ。これで私の心は解放されるのか?今はまだわからない。でも一歩前進したように感じた。


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