18 初顔合わせ(4)
肝心の勉強はどうなるのか気がかりだったので最初乙彦も一緒に内川の面倒を見ていた。中学英語の教科書と宿題を広げて、
「俺やっぱり無謀なのかなあ」
と、誰もが頷く言葉をつぶやいた内川に、
「だからまず教科書暗記しろ。まずはそこからだ!」
乙彦なりに激励したつもりだった。
「そうですよねえ。俺こんなレベルだったらついてけるわけないですよ」
「だったら時間ないってことはわかってるだろう。今から何も考えずやるしかないだろ! 気合だぞ乗り切るならそれしかないぞ!」
実際、誰もがそう思うしかない成績なのだからしょうがない。しばらく片岡も乙彦と内川のやり取りを黙って聞いていたがいきなり、
「関崎、今は少し黙っててくれないか」
きわめて冷静に言い放った。言われたことよりも、その声音に驚いた。
「いや、やはり受験となればまずいだろ」
「違う、このままだと内川くん萎縮してしまうよ」
片岡の部屋に連れて行かれ、野球選手のサイン色紙やポスターがちんまり飾られた壁に囲まれ、内川が集中力を失っているのはなんとなく分かる。片岡のやる気はわかるのだがやはりここは兄貴分であり公立中学における授業の現実を知る乙彦が助けを出すべきだと思うのだ。少し気合が足りないような気もする。望みが高すぎるからなおのこと。
それなりに説明したのだが片岡は持論を譲らない。
「俺、思うんだけど関崎は最初からやり方がわかっていたから突っ走れたんだよ。けど内川くんはそのやり方だと苦しいだけだと思う」
「それ以外方法あるのか」
「わかんないけど、あるよきっと。ね」
いきなり同意を求められ戸惑っている様子の内川だが、すっかり兄弟分の杯を交わした気分のままだ、否定するわけがない。こっくり頷いた。
「だから、申し訳ないんだけど関崎、これから三十分ふたりだけにしてほしいんだ」
「え?」
片岡の口調はいまだにおぼっちゃまのきりりとした言い方そのもの。
「勉強に集中したほういいと思うんだ。内川くん、そうだよね」
完全に骨抜きの内川は、乙彦に向かい申し訳なさそうにうな垂れている。こいつを誰が「伝説の生徒会長」と呼ぶというのだろう。今まで散々目をかけてやったというのにいきなり寝返りやがってばかやろうの一言くらいぶつけてやりたいがしかたない。「弟」には弱いのが昔から乙彦の性分だ。
「ああわかったよ。俺が帰ればいいんだろ、まったく、お邪魔虫で悪かったな」
「いや帰ったらだめだよ。勉強一段落したら一緒にラーメン食べようよ」
内川が「え、ラーメンですか?」と妙なところで反応する。今度は片岡もきっぱりと、
「だめだよ、勉強最優先だから。一時間集中しよう」
たしなめるように内川を自分の勉強机に追いやった。追い出された乙彦の背に片岡の呼びかけが届く。
「野球のビデオとか雑誌あるから、よかったら好きなの読んでていいよ。観てもいいし」
どうやら桂さんも片岡とのやり取りをすべて盗み聞きしていたらしい。片岡の部屋から出てきたところで大げさなポーズで万歳ポーズを取って待ち構えていた。
「関崎くんよ、災難だったなあ」
「一時間、待っていろと言われてしまいました」
「じゃあ待ってるとするか。どうせラーメンだ。すぐに出来る。さっきちらっと聞いたけど内川くんの好みはとんこつらしいね。にんにくたっぷり入っているのが好みらしい」
──あいついつの間にかそんなこと話してたのかよ!
内川も乙彦が想像した以上になじみが早いらしい。とりあえず桂さんも内川に関するそれなりの調査は終わっているようでたぶん「ご学友」としての合格点は出してもらえたのではと思う。
「あの、内川のことですけど」
念を押しておくことにした。裏切りやがったとはいえ可愛い後輩であることには変わりない。
「どうした」
「あいつは俺の後輩で時代劇マニアとかいう変わった奴ですけど、腹の中には何にもないいい男です。片岡くんとはきっといい友だちになれると信じてます」
「オーケーオーケー、そちらは大丈夫」
まあ座れ、とばかりに桂さんは乙彦をソファーに座らせた。しっかり掃除されているので空気が気持ちいい。テレビのスイッチを入れてチャンネルを回し、再放送のテレビドラマをつけたままにした。あまり興味ないのだがせっかくなので観るふりをしようとすると、
「関崎くん、じゃあせっかくだし俺とすこしホスト気分味わいますか」
全くイメージのわかない台詞で誘ってきた。
「まずは一杯、乾杯といきますか」
りんごジュースでシャンパン気分を味わった。
「ここだけの話なんだがな、クラスで司、どうなんだろうな、関崎くんや藤沖くんみたいな友だちもいるようで兄貴としてはほっとしてるんだがな、なかなか別の奴が来ないのはどうだろうと少し心配なわけなんだよ」
「片岡くん、友だちは俺たちだけですか」
意外だ。片岡は青大附中に三年間在学していたはずだ。
「いや、どうなんだろうなあ。うちに連れてくる奴はそういないぞ。俺ももっと連れ込め連れ込めって発破かけてるんだがな。それでもまあ、司の見る目は信頼できるとは思うぞ。関崎くんはそうとう、片岡に気に入られたらしいからなあ。麻生先生からも太鼓判捺されているし、いい友だちでよかったよ」
やたらと褒められて照れくさいが、お礼を言う。
「ありがとうございます。今日、うちの母も片岡くんの態度が大人だと驚いてました」
「そっか。あいつもがんばったってことだな。あいつなりにいい先輩になろうと背伸びしまくってるところなんで、そこんところはどうか大目に見てくれると助かるよ」
──やはり桂さんが考えていたんだ。
乙彦はりんごジュースに口をつけた。するりとゼリーのように流れ込む。スーパーで買うジュースとは違うさっぱり感がある。
「俺もなあ、今回関崎くんの提案聞いて、これは司にとってのベルエポックだなこりゃとか思ったっつうわけだ。司はほら、なんつうか」
「弟扱いされやすい」
思ったことをそのまま言うと桂さんは握手を求めてきて、選挙活動中の代議士ばりに熱く握った。
「そうなんだよ。司はもともとあのまんまのガキなもんだから、ずっと坊や扱いされてきたんだよ。俺の知ってる限りかばわれる立場にいつも立たされてて面白くなかったんだろうなあ。それが今回、一種の家庭教師だよな。誰かを導くっつうかっこいい立場」
「いや、後輩はお世辞にも成績よくないです」
一応、真実は伝えておいたほうがいいような気がする。
「俺も思ったんだけどな。あいつ一人っ子なんだよ。兄弟いないんだよ。んで俺みたいなのに二十四時間監視されて両親から離れて育っているところがあるから、まあ普通じゃねえ。俺もそれなりに司のことかちゃまわしているつもりだけどジェネレーションギャップというのはなかなか埋められねえ。そうなると友だちってのが非常に大切になってくる。そろそろ司も甘ったれている時期から脱皮する必要に迫られてるんだろうな。関崎くん、君んとこ兄弟何人?」
「三人です。真ん中です」
「そうか、やっぱり兄弟いるといないだと違うもんだな」
しみじみと乙彦を眺めやりつつ桂さんは改めてつぶやいた。
「内川くんの受験が終わる頃の司は、まさに見ものだな。楽しみだよ。ありがとう、関崎くん」