プロローグ 夏休み終了一日前
夏休み最終日、兄と弟は予想通り宿題に追われていた。工業高校在籍かつ本来雅弘の先輩にあたる兄も、プリントの宿題が終わりそうにないし、弟は弟で遊びほうけていたつけが来てしまい結局昨日から徹夜状態。結局熟睡して爽やかに目覚め、結果両親に引っ張り出されて秋物の買い物に付き合わされたのは乙彦ひとりだった。
「おとひっちゃんが一番頼りになるよねえ」
「本当だ。学費も稼いでくれるわ、手伝いもしてくれるわ、ありがたいこった」
褒め言葉がただただ嬉しい。学校に通っている時よりも、家でごろついている方が褒められるというのも正直どうかと思うが、青大附高に進学して以来自分の頭が錆び付いていることをいろいろと思い知らされてやさぐれたい気持ちも、正直あった。
「母さんこれから何買うんだよ」
「決まってるじゃないの。あんたたちの普段着やら下着やら靴下やら、いろいろあるのよ。それに靴もいいの買わないと。あんたこの半年でまた背が伸びたから、中学時代に来ていた服もうつんつるてんになっちゃってるのよ」
──ああ、そういえば。
気がつけば、腕も足首もまるまる出しっぱなしの時がある。気がつかぬうちに勝手に成長を遂げていたらしい。身体だけは。
水鳥地区は繁華街ということもあって商店街には事欠かない。とはいえ消耗品は数が必要だからできれば安い大型スーパーへ買い出しに行くのが常だった。今日は車で繰り出し、郊外の三階建て大型スーパーの駐車場につけた。ここだと大量に買い物をしても車までカートで運ぶことができるので楽なのだ。
「俺たちスーパーマンだな」
父が笑う。
「スーパーで買い物に勤しむ優秀なスーパーマンだ。屋上からひとっ飛びだなあ」
あまり面白くない感慨は聞き流し、母の買い物にまずは付き合うことにする。モデルになる乙彦がいないと服も買えないし特に靴は足に合わせないとまずいとのお言葉だった。洋服を選ぶのはかったるいがしかたない。言われる通りにする。
本当は一緒に入っている大型書店に寄って、いろいろ雑誌でも読みたかったのだが母の買い物は思ったより長引き、結局一時間半は引きずり回されるはめになった。三人兄弟の洋服類もまとめて購入した結果、手提げ袋七袋分にもなり、当然乙彦はカートで何度も屋上と二階洋服売り場を往復する羽目になった。
──まさに、スーマーマンだよ。これは。
その間に父は、母に指示された通りメモを片手に五人分の食材を大量に買いだめしている。その場合は地下一階食料品売り場からのカート往復になるので乙彦よりハードである。スーパーマン親子そのものである。
買い物も一段落し、乙彦はようやく自由の身になった。母も今度は自分の洋服やアクセサリーをウインドウショッピングしたいらしいし、父は少し一階の広場でたばこでも吸いたいらしい。帰りの時間を確認した上でしばらくスーパーの中をうろつくことにした。
三階の大型書店に入り、青潟市内ではあまり見かけない英語のペーパーバックを手にとってみる。新書版で紙質もがさがさ、お世辞にも質がいいとは思えない軽い本なのに一冊千円以上軽く超えることにぶっとんだ。クラスメートの多くは、図書館や古本屋を通じてペーパーバックを購入して自分で読破しているそうだ。適当に手にとってみるが、ちらっと目を通すだけで頭がくらくらする。青大附高英語科にあるまじきこととはわかっていてもなかなかしんどい。すぐラックに戻した。
──どうしても信じられないんだが。
ひとり、思い出す同級生。
──立村は中学時代、自由研究で「グレート・ギャツビー」の全翻訳を提出したという話なんだがどこまで本当なんだろうか?
そもそも乙彦は「グレート・ギャツビー」自体、アメリカの小説ということしか知らない。会社の偉い社長さんの話なんだろうと聞き流してはいる。
やはり乙彦にはスポーツ雑誌やプラモデル、アウトドア雑誌の方が向いている。
結局行きつくところはそこだった。しばらくぺらぺらめくって情報を収集し、スポーツ選手の自伝や伝記が並んでいる書棚で購入を迷い、ふらりと歩き続けていた。
──うちのクラスはやたらと文学少年が多いんだが、やはり俺も最低限の本は読んどくべきなんだろうな。
図書館で一、二冊めくってみたがフィクションはやはり最初の一章で大抵挫折した。
静内がらみで手に取った「不思議の国のアリス」は表紙だけでめくる気になれなくなった。この調子だと卒業するまで世界の文学を一冊も読み切ることなく終わりそうな気がする。
ふと、向こう側のマガジン売り場を見やった。なんとなく聞き覚えのある声が耳をかすったような気がする。空耳だろうか。
──誰だ?
最初は気にしなかった。しかし二度目に同じ声が飛んできた時はさすがに手を止めた。
──もしや、あいつは?
そのまま目線をマガジン売り場のあたりにおいて様子を伺った。二人組の高校生風男子が、周囲にも聞こえる声で何やら熱く語っているのが、かなり離れている乙彦のもとにも届く。真っ赤なランニングと黄色いスカーフ、膝丈のジーンズ。真っ黒に焼けたそいつは銀縁眼鏡を欠けた同じくらいの背丈をした男子とげらげら笑いながらしゃべり続けている。
──やはり、総田だ。
間違いなかった。総田幸信。青潟東高校に進学した、元水鳥中学副会長、奴に相違ない。
乙彦に気づいている素振りもなく、ひたすら隣の友だちらしき男子に、雑誌を開いて指差しながら語っている。声は聞こえるのだが具体的な内容がちんぷんかんぷんだ。
「やっぱし、このプログラムやるにはグラフィックが強いマシンでないと、やばいっし」
「けど、俺も自分のマシン手に入れるにはもう少しバイトしねえとなあ」
「でもすごいっすね。自分の力で全部一式揃えたってすごくないっすか」
──敬語を使っている、ということは先輩なのか?
内容がわからないかわりに相手の様子だけは細かく観察した。盗み聞きしているようで正直後ろめたさもないわけではないのだが、実際他の客たちはふたりの傍若無人な態度に引き気味のところもあるし、気づかないふたりのほうが悪いと割り切ることもできる。
その先輩らしき男子も、眼鏡を軽く指で押し上げながら、
「やっぱりしっかりバイトして自分のマシン買えよ。世界変わるぞ。店員の顔うかがいながら打ち込んでるのとはやっぱ気の入り方が違うからからよ」
「まじでそうっすね。俺も先輩みたくプログラムばりばり作りたいの山々なんですがね、貧乏人でかつ親の監視びしばしだとなかなか。先輩はいいっすね。好きなだけマイコンいじれて、さらに夜中まで打ち込んでも怒鳴られねえし」
「だが、やっぱり打ち込むのはしんどいぞ。指一本ってのはなあ」
──マシン、ってなんだ?
なんとなく理系の話であることは感じた。いわゆる「マイコン」と呼ばれるコンピューターのことを言っているのだろうか。雅弘からもちらっとその話を聞いたが乙彦はあまり興味を持たなかったので聞き流していた。だが、総田もやたらとコンピューターの話に花を咲かせているところみると、やはり「マイコン」というものが今の時代に人気を博していることは確かなのかもしれない。
もし乙彦に気がついたようであれば、近づいて挨拶でもしようとは思っていた。もともと乙彦と総田は水鳥中学生徒会の副会長同士、因縁のある仲ではあったが結局は静かなるフェードアウトで穏便に卒業した。卒業式の答辞を譲ってもらったりそれなりに雪解けしかけてきたところはあったけれども、根本的に乙彦と価値観が違い過ぎたこともあって仲良くなるには至らなかった。親しく「よお、元気か」と肩を叩き合う程のつながりはない。
ただ、隠れる気はなかった。
──俺から声かけるか。
思い切って立ち読みの伝記を棚に戻し、一歩踏み出そうとした時、ふたり組はさっさと背を向けて書店から出ていった。何も購入しなかった。
──なんだか後味悪いな。
思わず舌打ちしつつ乙彦は、つい先程までふたりが騒いでいたマガジンコーナーに近づいた。男性向けの趣味雑誌が多く並んでいる……ただしお色気はなし……棚をざっと眺めたところそこは予想通りコンピューター関連の雑誌ばかりだった。分厚く重たそうな雑誌が並んでいて、一部薄っぺらい雑誌も混じっている。手に取ってみると、海外のラジオ局を短波ラジオやAMラジオを使用して受信しレポートを書き、その上でベリカードというものを受け取るような趣味について事細かに綴られていた。
──そういうのがあるのか、知らなかった。短波ラジオだけではなくて、AMラジオでも拾えるのか。金がかからないな。これだと。
乙彦は、総田たちが投げっぱなしにしたままのマイコン雑誌を並べ直し、ラジオに関する雑誌を手に取り、レジに持っていった。英語科なんだから外国の放送に興味を持つことはいいことだと思う。何もペーパーバックばかりが英語の勉強なんかじゃないと訴えたい。