14 指揮台上の背中(5)
どうやら片岡と藤沖の会話をまとめてみるとこういうことになるらしい。
──乙彦たちが教室を去った後、歌いきれなかった「モルダウの流れ」を合唱コンクールフィナーレとして出すよう先生方に提案された。
──しかし、クラスメート三人が不在の中で歌うことに藤沖は反対だった。
──それを立村が何を考えたか全力でクラスの人間を説得し、藤沖を一方的に踏みにじって多数決で出場を選択した。
──指揮者不在で代役は、中学二年時に経験のある立村が立候補し、伴奏を疋田にまかせ一時間ほど猛特訓をしたらしい。
その後の展開はご存知のとおり。
状況が判明してくるにつれて立村の見事な采配ぶりが伝わってくる。
藤沖はそれでも認めたくないようだったが、片岡はそれなりに立村のことを見直しているようにも見える。舞台裏の握手を求めてきたというのもあの単純明快な片岡なら裏も何もない。純粋に感動したのだろう。
乙彦も片岡が一方的に立村を敵外視して無視決め込んでいるのは気になっていたし、その点の心配がなくなっただけでもよかったと思う。
片岡の家を出たのは五時半過ぎだった。
せっかくだから泊まっていけと誘われ、藤沖もずいぶんその気になっていたようだがさすがに甘えすぎだろう。帰ったらそれなりにやらねばならないこともある。
──立村に直接話を聞こう。
片岡からお土産に持たされたメロンを夕食後家族で切り分け奪い合った後、乙彦は受話器を取った。
──はい、立村です。
「立村か、俺だ」
自分でも声が上ずるのがわかる。電話の向こうにいる立村は少し笑っているようだった。すぐに礼を言ってくれた。
──関崎、今日は本当に助かった。ありがとう。
「礼を言うのは俺の方だ。学校では慌ただしくて本当の意味での礼が言えなかった。悪かった」
──いや十分だよ。
立村は声をひそめるようにして切り出した。
──それより関崎に聞きたいんだけど。
「宇津木野のことか」
乙彦も声を潜めた。あまり家族には聞かれたくない話題でもある。台所では父のために残したひと切れのメロンを何とかして奪おうとする兄と弟の声が聞こえる。
──そう。病院でかなり病状が重いと聞いたんだけどさ。
麻生先生も曖昧な言い方でごまかしている。本当は乙彦もそのことを知りたい気持ちでいっぱいなのだが残念ながら立村に提供出来る話題はない。嘘を言っているわけではない。「俺も具体的な病状は聞いていない。すまない」
そう言うしかなかった。だがどう考えてもこれはごまかしていると思われそうなのである程度は伝えた。
「ただ、彼女の両親にあたる人から説明は受けた。精神的なものらしいとは聞いたので、手術を必要とするような病気ではないということだ。
──そうか、手術ではないんだな。
少し安心したような声が聞こえた。やはり心配していたのだろう。そういう奴だ。
「とにかく、えらく頭を下げられてこちらも恐縮しっぱなしだった。とにかく昼飯だけでもということで無理やりご馳走されて、せっかく給食出ているのにいいんだろうかと思ったんだがとにかく食った」
あのまずい中華丼を思い出す。味の記憶は片岡宅の謎ラーメンを食わされても上塗りされないものなのだ。立村が怪訝そうに問いかける。
──あれ、渋滞して遅くなったんじゃないのか?
きた。これはやはり謝らないといけない場面だ。言い訳するのは男らしくないけれども事実は伝えないとまずい。
「俺も、宇津木野の体調がよくなった段階で学校に戻るべきだと主張したんだが、麻生先生および宇津木野のご両親にぜひにと引き止められてしまい、結局は担任の判断に頼らざるを得なかった。すまん」
なんだかやっぱり麻生先生のせいにしてしまっているような気がする。罪悪感がある。立村も不機嫌そうな口調で、
「これはお前に謝ってもらっていい内容だな。とりあえず学食で何かおごれよな」
たかってきやがった。しょうがない。学食何かまともな定食でも選んで食わせよう。取り急ぎ今は金がないので、
「バイト代入るまで待っていてくれ」
まずは手を合わせた。電話の向こうでは笑いがこらえきれないようだった。なんだ、冗談だったようだ。
──冗談だって。気にしてないからさ。
気持ちが少し楽になる。思い切って話すことにした。
「俺もそのあと一時頃に、麻生先生から合唱参加の話を聞かされて大急ぎでタクシーに乗ったんだが、その時は本当に渋滞にぶつかったんだ。なんでも、前の車が玉突き事故を起こしたらしくて身動きできなかったんだ。途中で降りて学校までバスで行くことも考えたんだが、結局はタクシーの方が早いという麻生先生の意見でそのままで行った。結局、間に合わなかったのが俺としては、死ぬほど悔しい」
「あと五分でも早かったら、とは思うよ」
なんだか自分でも言い訳がましくなっている。嘘を言っているつもりはないのだが微妙に話をふくらませてしまっている。
「ちょうど体育館の中に入った時、お前が指揮台で両手を上げているのを見た時、正直俺は何が起こったのか把握できなかったんだ。麻生先生からは指揮者なしで行われる可能性もあると聞いていたが、まさかお前が、立村とは、想像してなかった。古川も同意見だった。伴奏どうなったんだと思ったが、疋田が担当することになったんだな」
──そう。一時間くらいかけて疋田さんと音楽室でとことん音合わせしたし。疋田さんの注文はほんと多かったからめちゃくちゃ大変だったよ。
相当苦労したのだろう。立村の口調は落ち着いている。しかし陰では乙彦の知らぬところで面倒なバトルが繰り広げられたのだろう。どちらにせよあと五分、乙彦が古川とくだらないことをしゃべっていないでさっさと体育館に向かえばちゃんと自分の仕事も終わらせられたはずなのだ。そう考えるとやはり悔しい。何度も謝った。
「悪かった。いくら謝っても許されることではないと思うが、本当に申し訳ない」
──だからそんな謝らなくてもいいんだってさ。
「とにかく、クラスの奴らから事情は全部聞いた。立村、お前はすごい。心底尊敬する。今までお前を馬鹿にしていた奴も、すっかり見直したと聞いている」
片岡の態度が変わったことも伝えるべきか迷うが今のところは控えておく。
──そんなことないよ。当然のことをしただけだって。元・評議の遺産みたいなものだって。
立村はそれでも気を良くしたのか、軽やかに答えた。そうだ、こいつは青大附中の評議委員長だった。いろいろあって位を落としたけれども中身は全く変わっていない。周囲の評価ががた落ちだったとしても、乙彦はずっと立村に火が点くのを待っていた。
「元・評議か。そうだな。お前は評議委員長だった。そのくらいお茶の子さいさいだな」
思い出させてやりたかった。電話の向こうで立村は一言、
「そんなことないよ」
静かに答えた。
乙彦が受話器をおいた後、テーブルでは母が一口ずつ片岡がくれたメロンを味わっていた。兄と弟の激しい「ちょうだい」攻撃から守り切ったらしい。父の分については確認していない。
「おとひっちゃん、こんないいメロンお土産にくれる友だちがいるんだねえ。今度何かお礼に持っていかないとねえ。ほら、中こんなにオレンジ色でしょ。このメロン普通に勝ったら目玉が飛び出るくらいの値段なんだよ。ほら、電話でお礼言うからそのお友だちの電話、教えなさい」
──そんな高いメロンなのか?
桂さんが「ちょうどよかった、メロンジュースにするつもりでまとめ買いしといたもんがあったから、お前らエネルギー充電するためにしっかり食え、もってけよ」と笑顔でくれたものだから何も考えずお礼言ってもってきたのだが、盲点だった。片岡の家は、忘れがちだがそういう家だったのだった。