14 指揮台上の背中(3)
ひとりはしゃいでいるように見える藤沖と、その側で言葉選びに悩む片岡。その間に入る格好となる乙彦。どことなく微妙な雰囲気が流れている。
──いったい何考えてるんだろうか。
藤沖も決して無神経な奴ではないはずだ。乙彦に関わるよしなごとに関しては、こちらでも頼んでいないのにどんどん先に手回ししてくれる。陰口を叩かれていてもいつのまにか叩きのめしてくれている。すでに藤沖とは対等な関係だと思いたいところなのだが、やはりこういう時に重たい「兄貴分」気分が漂ってくる。
乙彦は片岡に尋ねてみた。
「何を食べようか」
「うん、桂さんに聞いて決めようよ。ほら、もう車来てるし」
青大附中裏の雑木林砂利道に真っ黒い車が停まっていた。片岡が駆け寄って後ろ扉を開き、
「早く乗れよ」
熱心に勧める。まずは運転席に回った。
「こんにちは、桂さん」
「よおよお、お久しぶり。そっか、今日は合唱コンクールだもんな。これからうちで遊ぶんだろ、さあさあ乗れ乗れ」
先回りされてしまうのはここでも同じだ。乙彦よりも前に藤沖が坊主頭を丁寧に下げ、
「ではおじゃまします」
さっさと後部座席に乗り込んでしまった。仕方なく乙彦も続く。片岡は助手席だ。乗ってみて気づいたが、無線機器らしきものが運転席に埋め込まれている。電話の受話器みたいなものもある。なによりも、中が広い。
桂さんは眼鏡を持ち上げざんばら頭で振り返った。
「司から噂は聞いてるよ。ええと、関崎くん、今回は指揮者担当だったんだよなあ。大変だったろ」
いつのまにか片岡は桂さんに逐一報告しているらしい。事実なのでイエスと答える。桂さんはすぐに車を発進させながら片岡に、「なあ司」と問いかけた。
「んでだ、結局どうだったんだ合唱コンクールは。お前の狙い通り一位だったのか」
「ううん、ならなかった」
「はあ? どべか」
「わかんないよ。うちの学校最優秀賞と優秀賞しかないし。どちらにもならなかった」
「ほんじゃあ、ちょっとめげたってとこか」
「うん、けどさ、けどね」
片岡が言葉を留めた。何かを言いたそうにしているがうまい表現が見つからない様子だ。助手席から乙彦たちに振り返り、
「どう言えばいい?」
直接問いかけてきた。要は乙彦か藤沖かどちらかが説明すべき話ということか。残念ながら乙彦はこの件に置いて適任ではない。自然と藤沖に任せざるを得ない。藤沖も待ってましたとばかりに説明役を買って出てくれたのでここは黙って聞くことにする。
「実は、うちのクラス、棄権したんです」
「棄権? なんかあったのか? そりゃピアノがつまづいたりとか誰かがぶったおれたりしたらそうなるかもしれねえが」
「その、誰かがぶったおれたんです」
釣られてすごい言い方をする藤沖。誰も突っ込まない。
「課題曲は問題がなくこの調子だと上手くいくと思っていたのですが、自由曲の最中に女子がひとり体調を崩して倒れてそれでおしまいです」
「あちゃあ、それは悔しいなあ」
「それで実はここからが本題なんですが」
もったいぶった口調で藤沖は乙彦を横目で見つつ続けた。
「指揮者が関崎だというのはその通りなんですが、その女生徒が倒れたのをいち早く見つけて保健室に運んだのもこいつです。実際は関崎が指揮者の仕事を放棄したことになりますが、人の命を最優先で選んだこいつを俺はめちゃくちゃ誇りに思います」
「おいやめろ」
さすがにそれは言い過ぎだろう。なりゆきだと言い返したい。それに下手したら乙彦の行動により宇津木野が体調を悪化させる可能性もあったのだ。肯定はできない。
「いいだろう事実なんだ。片岡も見てただろ」
「うん」
素直に片岡は頷いた。一緒に桂さんも「ふうむ」とつぶやいた。
「まじで王子だなあ。んでその子は大丈夫なのか。貧血でふらふらとかそういう話じゃないのか」
言葉に困る。藤沖も片岡も、麻生先生の話した「あまり楽観できない」とはいえ生命に異常はなしという言葉のみ。乙彦もなんとなく危なっかしいところは感じているがどう伝えていけばいいのかがわからない。
「とりあえず大丈夫そうです」
藤沖はあっさり流した。あまり宇津木野の病状には関心が薄いと見える。続いて片岡が割り込んで語りだした。
「でもさ、そのあと。関崎が病院に付き添っていった後、クラスでもう一度最後に歌うチャンスをもらえたんだ」
「トリかよ」
「そう、賞の対象にはならないけど自由曲だけ最後に歌わせてもらおうよってことになって、それで『モルダウの流れ』歌ったんだ」
「そりゃすごい。ナイス采配」
「そうなんだ。俺たち正直もう歌えなくてもいいやとか思ってたんだけど、他の先生がぜひやろうって呼びかけてくれて」
「ですが、関崎たちが参加できなかったのが残念です」
──まさか古川と無駄話していたなんて言えないな。
いつかは白状しなくてはならないが古川の立場もある。乙彦は黙っていた。構わずに藤沖は続けて説明した。
「その倒れた女子に付き添いで関崎ともうひとりの女子がくっついて行きました。病人を含めてクラスメートはふたり欠けている状態です。そんな中でいくら歌おうと勧められても何か間違っているんじゃないかと正直思っていました。合唱コンクールは本来クラス一丸となるためのイベントだからだれかひとり欠けても意味がありません」
「まあそうだわなあ」
「俺としては関崎が帰って来てから全員の総意で歌うかどうかを判断すべきだと思っていました。ただ、クラスの連中は俺と違う考えだったようで結局、関崎たちが到着するのを待つことなくラストで歌うはめになってしまいました」
「そうか、歌いたくなかったのかなあ」
とぼけたように桂さんが尋ねる。藤沖はもう一度乙彦を見てから、
「歌いたいとは思います。しかし全員揃ってない状態だと意味はありません。来年に持ち越すべきでした」
──ちょっと待てよ。藤沖はラストの「モルダウ」合唱反対したのか。
「藤沖、聞きたいんだがいいか」
乙彦は確認の意味で割り込んだ。口を尖らせる藤沖に畳み掛けた。
「俺が体育館に到着した時の合唱は、あれクラスの総意じゃなかったというわけか」
「最終的には結果オーライだ」
藤沖も不機嫌そうに返した。
「指揮者がいない中でどうやって歌うかという話になりいったんは流れかけた。クラスの奴らも無理して歌いたいとは思ってなかったからな。だが、ひとりどうしても合唱をさせたいという奴がいた。それがあいつだ」
「……立村か」
ぴく、と片岡が肩をこわばらせている。藤沖は苦しそうに続けた。
「そうだ。お前は気づいてなかったかもしれないが立村は宇津木野が倒れた時も延々と伴奏のピアノを弾き続けていた。普通だったら倒れた仲間を気遣って弾くのをやめるだろう。しかしあいつは自分がどうしても弾きたいというただそれだけでピアノにかじりついていた。麻生先生も激昂していた」
──そういえば怒鳴っていたな。
微かな記憶がよぎる。
「それだけ弾くのが好きならそれはそれでいい。だが普通は人の命を最優先にすべき場面だ。俺は関崎が宇津木野のために指揮棒を捨てたのは正しい行為だと思う。そして指揮者の行動に合唱も、もちろん伴奏も従うべきだ。しかしあいつはそれをしなかった。さらに言うなら」
言葉が震えていた。
「立村はいきなりクラスの連中を丸め込むようなことを言い出した。つまり宇津木野の立場が苦しくならないように合唱をトリでやらせてもらうべきでありお前たちを待たなくてもやるべきだとか言い出した。あの場に俺が入れば絶対に止めさせた。だが俺が気がついた時は全員がもう立村に洗脳された状態で」
「藤沖、それ違うよ」
片岡が口をはさんだ。
「どう違うんだ、司」
「だって、藤沖は最後には賛成してたよ」
乙彦と藤沖を交互に見比べながら片岡は説明した。
「立村が提案した時に藤沖、今回は無理そうだって言いながら教室に駆け込んできただろ」
「あれは、関崎たちがまだ戻ってこないと職員室で聞いたからしかたなくだが」
「あの後、藤沖を含めて合唱をするかしないか、決を取っただろ」
畳み掛ける片岡にたじたじとなる藤沖。自分の膝をやたらと揉む。
「あの時反対するかなと思ってたけど、藤沖賛成したよ。だから歌ったんじゃないのかな」
「いや、あれは」
しどろもどろになる藤沖に乙彦は、肩に手をやり声をかけた。
「とりあえず、なんか食ってから詳しく聞かせてくれ。どちらにせよ俺はお前を責めたりしないからな。片岡も、たのむ」