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14 指揮台上の背中(1)

「静かに開けるんだぞ」

 乙彦と古川が揃ったところで麻生先生は小声でささやき扉を細く開いた。

「もしかして今歌ってるのって、うちのクラス?」

「そうだ、もう少し早く気づいてればな」

 照明がほんの少し落とされている館内、乙彦はそっと中を覗き込んだ。古川もしゃがみこむようにして顔を突っ込んだ。

 いっぱいに響き渡っているメロディは疑いもなく「モルダウの流れ」だった。何度も乙彦たちが練習し指揮棒を振った。今日も出だしだけちゃんと立村と打ち合わせて前奏までは進んだ曲だ。

「ちょっとちょっと」

 古川が足元から乙彦を見上げ、体育館の奥を指差した。

「指揮者やってるのまさか」

「おい、まさか」

 乙彦も伸び上がった。覗くだけではだめだ。思わず足を踏み入れた。古川がよろけて両手を付き、ゆっくりと立ち上がった。

 乙彦が立っていたあの、指揮台の上。

 後ろ姿はほっそりしたブレザー制服に整った髪。

 ──あいつが、か。

「そうだよ、関崎」

 今、自分が口にしようとした言葉を古川はきっちり肯定した。

「立村が、指揮してる。なんなのあいつ、乗りに乗りまくってるじゃん!」


 麻生先生も含めて三人とも扉を背にして舞台を眺めやる。まだ乙彦たちが入ってきたことに誰も気がついていない様子だった。何も持たず両手でゆったりとリズムを刻み、すっと手の中に歌声を集めては広げ、広げては飛ばしを繰り返すようなかなりオーバーな動作。微かに笑い声も聞こえる。指揮者の背中は見ているだけで結構面白いものだと改めて気がつく。

「立村が、なんでだ?」

 麻生先生がつぶやいた。古川も隣りで囁く。

「あいつが指揮者ってことは伴奏誰だろ」

「まさか」

 言いかけて乙彦も息を飲んだ。間奏の部分勢いの溢れ方に聞き覚えがある。

「疋田が弾いているのか」

「あっ!」

 古川も初めて気がついたのか、口を両手で押さえる。

「だからか」

「あとで立村とっ捕まえて聞き出さなくちゃ」

 それ以上何も言えなかった。三人、一度顔を見合わせた後ただじっと指揮台で手を動かす立村の背中を見つめるだけだった。

 最後の溜め、その後ゆっくりと立村が両手を広げるように合図を送る。

「モールーダーウーウ……」

 しっかりと高音も響いていたし低音もぶれがなかった。ピアノの伴奏が続いている間ずっと声を伸ばし続け、ぴたりと最後の音で止まった。立村の手が握り締められたのを観た。きっちりと収まった。

 一瞬静まった後、拍手がじわじわと広がっていく。照明が明るくなった。乙彦たちの目もだいぶ慣れていた。

 立村が両腕を下ろし指揮台から下り、舞台の前で一礼しようとするのと同時だった。

 いきなり誰かが舞台から駆け下りる足音が響いた。


 ──おい、今度はなんだよ。

 考える間もなかった。その足音の主はすぐに乙彦たちの前まで馳せ参じ、そこにいる人々全員が呆然と見守る中満面の笑顔で語りかけてきた。

「関崎、よくぞ、戻ってきた!」

 藤沖だった。だいぶ毛が生えてきたとはいえまだ坊主としか言えない頭を何度も振りながら、

「お前なら絶対に戻ってくると信じていたぞ! よくぎりぎり間に合ったな」

「いや、悪い、間に合ったとは言えないが、一体何があったんだ」

「あとで話す。とにかく、これでA組は全員揃ったというわけだ」

「それは違うだろう」

 ふたりでやりあっている中に古川が割り込んだ。同時に周囲の視線が釘付けになっているのも確認した。ついでに舞台上から立村とその背後の連中が見下ろしているのにも気づいた。興奮気味にまくし立てる藤沖を落ち着かせるのはやはり古川しかいなさそうだった。

「なーにあんたいっちゃってるの。あのさ、宇津木野さんがとりあえず大丈夫だってことだけでも伝えなくちゃってダッシュでもどってきたんだよ。ねえ関崎」

「いや、それは」

 口を開きかけた。それは違う。少し時間を無駄遣いしすぎた。あやまりたかった。もちろん古川は言わせなかった。

「とにかく、今言いたいことってのはあんたたち最高、かっこいい! きゃーってキスしてあげたいくらい。藤沖ほっぺた見せな」

 無言で藤沖は古川を軽く手で払い除けた。乙彦にさらに語りかけた。

「事情はあとで説明する。とにかく棚ぼたで歌わせてもらえた。俺としては言いたいこともいろいろあるがとりあえず歌い納められた」

「ああ、聞かせてくれ、いったい何があったんだ」

 ちらと舞台を見やると、立村が音楽委員の生徒からマイクを受け取っているのが見えた。挨拶したいのも当然だと思うが、周囲はどよめいた。立村はマイクをすぐに口に寄せ、

「今日、この場で僕たち一年A組に歌いきれなかった自由曲を思い切り合唱するお許しをいただきありがとうございました。今この場にいる全校生徒のみなさん、そして先生方に僕たちはクラス全員、心から感謝しております。そして」

 いきなり言葉を切って乙彦たちに身体を向けた。ほんの少し斜に向けただけだが、体育館の聴衆たちはみな乙彦たちに気がついたらしくひそひそ話を始めている。なんだかむずかゆい。早く終わらせてほしい。

「今そこにいる二人は、合唱中体調を崩した人に付き添ったためにこの場で歌うことができませんでした。全員舞台に上がるまで少しだめ待ってもらえますか」

 ──あいつ、いったい、何したいんだ?

 拍手が再び沸き起こった。壁に張り付く格好で椅子に座っていた先生たちがひとり、ひたりと立ち上がり乙彦たちに向かいはっきりと拍手を繰り返した。

「お前たち、呼ばれてるぞ。早く行け」

 いつのまにか陰に潜んでいた麻生先生が乙彦に囁いた。藤沖も笑顔で頷いた。古川はひとつため息を吐いたのち、

「まったくあいつも何、ヒーローインタビューの真似事したいんだか。さ、関崎行くよ。あんたがいない間に仕事してくれた立村の顔に泥塗るわけいかないじゃん? ほらほら、さっさと歩いた歩いた!」

 肩をいからせすっすと舞台へと向かっていった。なぜ、いきなり拍手喝采で迎えられなくてはならないのか。何よりも今日は最後の合唱に参加できなかった。本当はもう少し早く靴を履き替えていれば間に合ったのかもしれないのに。


 ──立村、お前何を考えて俺たちを。

「お前いったい、どうしたんだ」

 舞台に上がった。人前など気にしてられない。乙彦は立村をじっと睨んだ。しかしひるむ気配なし。立村はすぐに乙彦の居場所を差し、

「関崎、そこでいい。立っててもらえないか。それと古川さんは真正面で」

 すばやく立ち位置を指示した。

「立村あんたさあ」 

 文句を言いつつも古川はすぐ舞台のど真ん中に立った。目で確認した後、立村は舞台から見えるピアノ席に片手をあえて、またさっと手を閃かせた。マイクで一声、 

「ありがとうございました」

 はっきり、しっかり、聴き取れる声で言い切った。即座に和音が三回響き、それに合わせて立村が頭を下げた。これはもしかして、礼をしろという意味か。乙彦も慌ててそれに習った。立村は最後の和音ですっくと頭をあげ、そのまま袖に向かっていった。乙彦も古川もそれに習い、そこからすぐに女子たちも男子たちも続いた。整然とした振る舞いに何かを感じたのか、また拍手が暖かく湧いていた。

 

 先に下りた立村は、他の生徒たちがピアノを弾いていた疋田……やはり読み通りだった……を労ったりしている間に体育館から出ていこうとしていた。これはまずい。乙彦はすぐに取り押さえた。肩にしっかり手をおいた。

「立村、聴いてたんだ」

 ぴくりと身体が震えている。絶対に逃さない。乙彦はさらにささやきかけた。

「ちょうど歌が始まる直前に体育館に入ったんだ。まさか最後に歌わせてもらえるとは思わなかったが、お前がしっかり指揮している姿を見た時、とうとう来た、そう確信したんだ」

 何も言わず、立村が振り向き乙彦をじっと真正面から見つめてくる。

 戸惑ったような、舞台の上とは全く違う表情だった。

 この気弱そうな奴がなぜそうしたのか、どうしても知りたい。

 なぜ、指揮台にに立つ決意をしたのかも知りたい。

 ぐるりと男子連中が九人全員乙彦と立村を取り囲んでいる。

「立村、お前復活したな」

 乙彦は片手を差し出した。今することは、何はともあれ握手しかなかった。ためらうように立村は乙彦の手を握り、軽く振るようにした。


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