13 薬のかおり(6)
タクシーの運転手さんはのんきなことを言っていたけれども結局また途中で止まったりなんなりでそこからさらに三十分近くかかった。早い段階で学校に連絡を入れていた麻生先生だったが、
「すいません、ちょっと電話かけてきますんで」
乙彦と古川にせっつかれもう一度公衆電話に駆け込んでいった。
「もうそろそろ三年の部終わるかなあ」
「そういう時間だな確かに」
もう二時十分前だ。たぶんクラスメートも下手したら帰っているんじゃないかと思う。
本当は古川にも質問したいことがあった。
──なぜ、宇津木野が学校にもう来ないと言い切ってしまえるのか。
車の中で何度も言い募った理由はどこにあるのか。
ひとりだけ関係のない人が混じっている以上、口には出せなかった。
ようやく学校に到着したのは二時一分前だった。車のメーターをちらちら見続けていたのでその点は確実だ。
「どうもどうも、時間がかかってすいませんでした」
「いやこちらこそどうもどうも」
和やかに運転手さんと挨拶をし車から下りた。まだ誰も生徒が外にうろついていないということは、合唱コンクールもまだ終わっていないのだろう。間に合うかもしれない。
「先生、合唱コンクール終わってたらどうするんですか」
古川が問いかけると、麻生先生は職員玄関に向かいながら、
「まずは宇津木野の病状だがさっき車の中で話した通り、オブラートにくるめよ」
念を押してきた。あの後も何度か同じ話をしたので乙彦も頭にしっかり叩き込んでいる。あくまでも生命の危険はないがしばらくはそっとしとこう、それでいく。
「じゃあ、私たちもさっさとA組で待機してましょうか」
「そうだな、もうクラスの連中も戻っているかもしれないしなあ」
麻生先生はのんびりした口調で答え、職員玄関へと向かった。一方乙彦と古川は生徒玄関から入らねばならない。少し歩かざるを得ない。古川とやっとふたりで話せる。
思い切って切り出した。
「さっきの話なんだが」
「宇津木野さんのこと?」
「お前さん、宇津木野が学校に来ないかもとか言ってたな」
「やっぱし気になるんだねえ」
わかりきっていたかのように古川は答え、両手をぐるんと振った。
「まあこれもあとで話すけど、今日私たちをなぜあんなに長く引き止めてたかわかる?」
「わからないが」
「私たちからなんとかして、学校側の事情を詳しく聞き出したかったんだろうなあ」
「なんでだ」
「宇津木野さんのお父さんきっと、学校の雰囲気とか私たちから聞き出して、学校休ませてもいいという証拠みたいなのをつかみたかったんだと思うんだ。宇津木野さんを守るためにね」
全くわけのわからない発想である。乙彦には理解不能だ。
「なにそのぽっかん顔。あのねえ、別に宇津木野さんのお父さんは学校を敵だと思ってるわけじゃないの。単に過保護なの。学校で嫌なことがあったら休んでもいいし、辛いことがあれば家にこもらせたい、そういう考えなだけなの。だから学校で宇津木野さんが叩かれそうだという情報があれば、そうしやすいじゃないの」
「意味が全くわからないが」
「わからないならわからないでいいの。だいたい宇津木野さんと話をしていて、家族のみなさんがそういうタイプなんだなってわかったから私としてはねえ」
もったいぶって古川は続けた。生徒玄関の前で立ち止まり説明した。
「うちのクラスが思いやりのあるすっごくいい人ばっかりなんだってこと強調しときたかったんだよね。前にも似たようなことあったらしいって、中学時代誰かから聞いたことがあってさ。私の頭の中になんとなく残ってたんだよね」
「前にとはどういうことだ」
「うん、中学時代に学校に一時来なくなっちゃって、結構みんな苦労して呼び戻したって経緯があるらしいんだ。理由は学校側の問題じゃなくてピアノのことだったらしいけど」
ずいぶんと情報通だ。もうひとつ疑問をぶつけた。
「古川はずいぶんと女子たちの家庭事情に詳しいようなんだがどうしてそこまで知っているんだ」
「男子とは違って女子はねえ、おしゃべりで大抵の事情がわかっちゃうもんなの。それプラス直接おうちでお茶会とかすれば一発。結局は足で情報稼がなくちゃ。気分は刑事よ」
「それ、クラスのためにしているのか」
深い意味はなかったが古川はぴくりと肩をいからせた。
「なによ、個人的好奇心を満たすためとか思ってる?」
「そうは思わないが、普通の評議委員が踏み込んでいい範疇を超えているように思う時もあるが、青大附高だとそうしないとまずいのか」
古川はしばらくだまり、足元の土をけった。乙彦から目をそらした後改めて顔を見つめた。
「うちの学校の先生たち見てて、どう思う、関崎は」
「どうと言われても困るが」
いきなり話をそらされて戸惑う。古川は鼻でふふっと笑った。
「前さ、立村と話した時にああそうだなって思ったことあってさ。うちの学校の先生たちって、仕事とプライベートの区分けがされてない人が多すぎるって」
「なんだそれは」
「青大附属全般に言えることだけどね、面倒見良すぎるんだようちの学校って。立村も冗談めかしていってたけど、家庭壊すよねあれじゃあ。なんでもさ、夏休み最終日に立村がお父さんと一緒にデートしてたら中学時代の担任にナンパされちゃって、いろいろと説教されたらしいのよね」
ナンパ、デート。古川の言葉は謎が多すぎる。
「それでお父さんが先生に、もっと家庭を大切にしなさい、休みの日くらい仕事のことを忘れなさいって逆説教したらしいのよ。がーんと来たみたい」
「だが、二十四時間仕事に全力投球するのも悪くないだろう」
「いやだからさ、それだと身体壊すって。やりすぎよね。話逸れたけど私も実は中学時代の担任の方針に賛成派。確かにリラックスできないよなあって思うけど、評議という立場に立った以上はみんなが満足するように動きたいじゃん? そのためにはいろいろと知っとかなくちゃいけないじゃん?」
確かにそれは言えている。靴箱前のすのこに乗りながら古川はふんぞりかえって続けた。
「なんだかんだ言ってうちの学校私立だからそういうところが自由なのかもね。いろんなこと言う人いるけどこれが私のやり方だから。ちゃんと踏み込むところまで踏み込めば、わかりあえるって私は信じてるからさ」
ここまで古川が語った時だった。
「古川、それと関崎!」
いきなりロビーに怒鳴り声が響いた。
「そこで油売ってるんじゃない。すぐに上靴に履き替えろ!」
麻生先生が頭に湯気たてそうな勢いで叫んでいる。あわてて乙彦も靴を下ろした。
「すいません、すぐ行きます」
「どうしたのさ先生、何、フィニッシュしてるのさ」
古川の軽口にも動ぜす、麻生先生は足踏みばたばたしながらふたりに呼びかけた。
「これから一A連中全員で、最後の合唱をさせてもらうことになっている。お前らも急げ!」
言うやいなや、麻生先生はふたりの肩をどんと押し体育館まで追い立てた。額にはまさに脂汗らしきものがたっぷり広がっていた。廊下を全力で走り出した時扉の向こうから、滑らかな「モルダウの流れ」の旋律とそこに重なる歌声を確かに聴いた。