13 薬のかおり(5)
何度か乙彦は、早めに切り上げるよう麻生先生に提案したつもりだった。
「先生、早く学校に戻ったほうがいいんではないかと思います」
「そう急くな」
古川も少し迷っていた様子だったが特に言い返すこともしなかった。途中、宇津木野の兄に当たる男性や、入れ替わりで母親も現れて和やかに会話が弾む。なかなか切り上げ時が難しい。さすがに大人の言い分をぶっちぎるわけにもいかないし、宇津木野の父も乙彦に興味があるらしくいろいろと質問を投げかけてくる。
──俺がこういう無駄話しているところクラスの連中に聞かれたらどうするんだ。
古川にも質問したいところだが、そちらはそちらで宇津木野の母と熱心に学校の様子など含めて話し込んでいる。つまり、古川の仕事が終わるまではこうやっていなくてはならないとうことか。
だが、院内食堂らしきところで中華丼までご馳走になってしまい、気がつけばもう一時十五分前。そろそろ給食および休み時間も終わる頃だろう。三年の合唱も始まるだろう。
──これをいわゆる「油を売る」ってことじゃないのか。全くあとで藤沖や立村にどう言い訳すればいいんだ。古川、あとは任せた。
なによりも不思議なのは、宇津木野の容態についてあえて曖昧にみなぼかすところだった。本来ならそれを聞き出しクラスメートに伝えることが義務なのだから教えてくれてもいいはずなのに、「今は休んでいるけれども大丈夫」の一言のみだ。部屋の前に貼ってある札などから外科病棟なのではと予想はつくのだが、それ以上の判断材料がない。
「さて、それでは私たちも学校に戻らねば。宇津木野さん、お嬢さんのことはきちんと子どもたちに伝えますのでご安心ください。また夕方にでもご連絡します。まずはこのふたりを学校に届けてきますので」
やっと麻生先生が腰を上げた。途中麻生先生だけ何度か席を外したりもしていたが、結局一時間半近く延々と語らっていた。宇津木野家族の見送りを受けて病院の玄関に戻り関係者がいなくなったところで古川が問いかけた。
「先生、結局私らおじゃま虫だったんじゃあないですか」
「そんなことはないぞ。宇津木野のご両親もお兄さんもお前らの顔見てほっとしていたの、わかっただろ」
「確かにそうですが」
乙彦もこの機会、しっかり自分の意見を表明しておきたい。
「宇津木野さんの病状がわからないままずっと意味のない話をし続けているのは間違いだという気がします」
「意味はあるぞ。実はな、以前から宇津木野のご家族は学校の様子などぜひ生の声を聞かせてほしいというご希望があったようなんだ」
「そういう問題じゃないと思います」
麻生先生は乙彦の意見を聞き流し片手を挙げ、タクシー乗り場に向かった。別に呼ばなくてもちゃんとタクシーが待ってくれている。
「さあ、乗った乗った。お前らこれからだぞ、これからだ」
助手席に麻生先生が、後部座席に乙彦と古川が並んで座った。
「青大附高職員玄関までお願いします」
青潟市立病院は青潟大学から少し離れた高台に位置している。青潟大学からは少し遠い。少なくとも徒歩で行ける距離ではない。他にももっと近い病院があったはずなのに、なぜ場所が離れた病院に宇津木野を運んだのか、その辺りが謎だった。少し道が混み合っているようで、平日なのに渋滞しかけている。
「今日、すぐ側の大型スーパーが開店しましてねえ、行列しているようなんですよ」
「へえ、平日なのになんで?」
「やはり、車つけられるスーパーってそうないですからねえ」
古川がすぐタクシーの運転手さんと馴染んでおしゃべりを仕掛けている。なかなか進まない道にしびれを切らしたのかもしれない。いくら遠いとはいえ、行きに事務員さんに連れてきてもらった時は十五分か二十分くらいで到着したはずなのに、もう三十分近くこの状態だ。
「でもちょっと遅すぎやしませんか」
麻生先生がいらただしげにタクシー運転手さんに問いかけた。しばらく無線でやり取りをしていた運転手さんは窓を開け、
「ああ、どうも、前の方で誰かがしびれ切らして車から降りて、事故ったみたいですねえ」
他人事のようにつぶやいた。
「事故?」
乙彦も身を乗り出した。
「それだと、まだこのまま動かないということですか」
「そうですねえ。まあここの道さえ出てしまえば青潟大学までは五分もかかりませんよ。少しの辛抱よろしくお願いします」
──なんてことだ。
乙彦の気持ちを代弁したのはやはり古川だった。
「先生、それじゃさあ、下手したら私たちが学校着くまでに合唱コンクール終わっちゃうよ。学校に電話してきたら?」
「お前さんが心配する前に、俺も担任だちゃんと連絡はしたぞ。理由も伝えてあるからお前らがはらはらする必要はないぞ」
「いえ、先生、俺も古川さんの意見に同感です」
乙彦も加勢した。タクシーの運転手さんは適当に聞き流し時折無線に返事をしている。
「本当であれば、宇津木野さんの事情を聞いた段階で中華丼を食べずに教室もどって給食を食べるべきだったのではないでしょうか」
「まあ、確かに味はな」
勘違いしたつぶやきを返す麻生先生。やはり乙彦と味は同じ感想のようだ。
「まあ過ぎたことだしこれから急いで帰って説明すればいいですよ。それより先生」
古川は乙彦を押さえるようにして割り込み話し出した。
「これからのことなんですけど、やっぱり宇津木野さんしばらく学校、休みになりそうですか」
「おい、さっきは別に、異常なしとか言ってただろ」
「違うんだってば」
手で膝をぎゅっとつねられた。痛い。頼むからそのまま乙彦の膝に手を置いたままにするのはやめろと言いたい。
「きっと、あの調子だと宇津木野さん、来れませんよね」
わけわからないことを古川は先生に投げかける。答えが返ってこない。一方的な古川の問いかけをじっと受け止めるのみ。
「だから私たちが何かしなくちゃいけないってことですよね。それを先生、私に伝えたかったんじゃないのかなあ。先生、私との仲じゃん、返事してよ」
「古川、年頃の女子なんだからもう少し言い方考えろ」
たしなめた後、車が動くまで麻生先生はうつむいていた。運転手さんは気づかないように窓辺から顔を出して様子見していた。やがて動き出すと同時に、
「とりあえずだ。今日の話はあとで古川とも学校で相談することにして、クラスの連中にはまだ宇津木野の体調そのものは問題ないということと、しばらくそっとすることだけ伝えておくことにしようか。関崎も、今聞いたことは時期が来るまで他の連中には内密にしてもらえるか」
「もちろんです。そのつもりです」
当たり前すぎることを問われていきりたちそうになる。古川が宇津木野父に熱く語っていた言葉のほとばしりが、自分の中で化学反応を起こしているようだった。少なくとも古川は宇津木野の事情を乙彦以上に把握し、さらにこれからのことを見据えた上で行動している。その場でただ宇津木野を背負って走り出して見切り発車している自分とは違う。
「いやあよかったですねえ、前の車が動き出しましたよ」
のほほんと運転手さんが三人に呼びかけた。
「この調子だと、すぐ到着ですなあ。おつかれさんでした!」