13 薬のかおり(1)
病院受付で事務的手続きを取っている保健の先生を待ちつつ乙彦は古川とふたり、薬臭い待合室で突っ立っていた。ベンチもすいてはいるのだが座る気になれない。
「今更なんだが」
「なによ」
「古川はなんで付き添いに立候補したのかそれを知りたい」
乙彦もあの場所ではまず思いつかなかった発想だった。一クラスメートである自分が、いくらなんでも付き添いを申し出るなんてことは考えられない。そこまで踏みこんでいいのか迷うところもある。しかし古川はためらうことなくそれをした。
古川はひょいと真上を見上げた。すぐに乙彦へ向かい、
「まあね。もし自分が宇津木野さんのお母さんだったら、自分の娘がなぜ倒れてしまったのか、それを詳しく聞きたいと思うんだ。けど、先生たちはそんな側にいたわけじゃあないし、わからないよね。私が一緒にいたら、少しは安心できること言えるんじゃないかって思っただけなんだけど。別に何か出来るとか思ったわけじゃないけどね」
それに、と付け加えた。
「もう、うちのクラスでの合唱コンクールも幕になっちゃったから、それなら今一番心配な人のところに一緒にいたいと思ったのもあるよ」
「そんなに心配だったのか、何かあったのか」
口ぶりにこもったものを感じる。きっと女子たちの諸事情を古川はひとりで把握し、それなりに面倒を見ていたのだろう。宇津木野に対してもそれはきっとあるに違いない。
「まあ、いろいろあるよ。宇津木野さんもね。きっとこの一ヶ月間悩んだんじゃないかって思う」
「悩むようなことあるのか、合唱で」
「伴奏、ってのがあるよやはり」
さっき、車の中で話していた内容が少し気にかかる。目の前で事務手続きを取っている先生は随分と時間がかかっているようすでまだ乙彦たちのもとに戻って来ない。
「立村とのことか」
「そう。でも、しょうがないよ。みな一生懸命だったんだから。あいつも自分が一番いいと思ったことを選んだだけだし、宇津木野さんもそれをわかっていたと思いたいし」
ようやく準備が整ったのか、先生が乙彦と古川に声をかけた。
「さあ行きましょうか。宇津木野さんはこれから処置を受けることになるから少し待っていましょうか。それとあなたたちは向こうのベンチに座ってて。麻生先生と宇津木野さんのお母様がいらっしゃったらあそこの受付の人に声をかけて指示を仰いでください」
「先生は?」
古川が問いかけると、
「詳しい話を聞いてきます。それとあなたたちにはこれから大切な仕事をお願いすることになりますから、それまで待機していてくださいね」
きりりと言い切り、足早に保健の先生は看護師の女性に連れられて奥の廊下を曲がっていった。
「大切な仕事なんてあるのか」
「あるよ。関崎が一緒にいて助かった。ちゃんと義務を果たせるからさ」
「悪い。俺はあまり回りくどい言い方が苦手だ」
「わかった。要するにね」
膝を思い切り広げてスカートをいったんぱふりと持ち上げ、古川は姿勢を正した。
「宇津木野さんの家族に、あの子が悪くないんだってこと、伝えなくちゃいけない」
それからゆっくりと語り始めた。息苦しい匂いの中、乙彦も前かがみのままじっと古川の方に耳を傾けた。
「あんたにもどっちにせよ頼まないとまずいとは思ってたんだ」
切り出した。
「順を追って説明するとさ。夏休み前の段階で私も麻生先生から合唱コンクールに向けてクラスをまとめていこうぜ、みたいなこと言われてたんだ。ご存知の通り藤沖は生気なかったし、まあ私ひとりでできるとこまでお膳立てしとくつもりでね。で、合唱といえば伴奏、伴奏といえばピアノでしょう。最初は軽く見てたんだ。宇津木野さんと疋田さんはふたりとも中学二年の合唱コンクールで上手にピアノ弾いてたし、課題曲と自由曲を割り振ればいいよね、って感じでさ」
「それがうまくいかなかったというのは、お前から聞いた」
「そうそう。それで最初ふたりに伴奏を頼んだんだけど断られたんだ。詳しいことわかんないけど、それぞれ習っている先生同士が妙にライバル意識燃やしてて、互いの弟子を駒にして戦いたがってるっだってさ。面倒だよねえ。たまたまふたりとも小さい頃からコンクールでしょっちゅう顔合わせていてそれなりに意識もしてた。友達じゃなくて顔見知り」
芸術の世界は面倒なんだろうと思いを馳せる。
「たまたま同じクラスになっちゃったわけで、ふつうのクラスメートとして付き合ってきたけど、やっぱりピアノの話が絡むと面倒なことも多いよね。うちの学校の合唱コンクールは幸いか不幸か外部公開しないから大丈夫だって言い聞かせたけどふたりの意志は変わらず。そうとう二年の合唱コンクールでの伴奏、比較対象されちゃって懲りたんだろうね。そりゃ外部にはもらさないにしても、噂は流れるよ。さらに今年は学内演奏会が十月にあるし、ふたりとも参加するしさ。もう神経ぼろぼろって感じなんだろうなあ。凡才たる私には全然わかんないけど、才能ある人は大変なんだね」
「もっともだ」
「しょうがないからピアノを弾ける子探したけどあまりいないというか、こちらも比較対象になりたくないってことで逃げられちゃった。そうよねえ。あのふたりがいるのに弾きたいなんて度胸普通ないよ。そのくらいあのふたりの才能は抜きん出てたの。しかたないんで今度は男子に目を向けたら、あららってこと」
「灯台下暗しか」
古川は声を落とした。
「まあね、立村があれだけ弾けるとは思わなかったしさ。『エリーゼのために』をあれだけ弾けるんだったらたぶんなんとかなりそうな気はしたよ。それにあいつがあれだけやる気見せるってこと、三年間見てきてほとんどなかったよ。発作的に馬鹿やることはあったけど。高校でしょぼくれててこいつこんなに人生捨ててどうするんだろとか思ってたこともあったんで、あえて私はやらせたわけ」
「それは正解だ。俺も古川の立場ならそうしていたに違いない」
「実際あいつは必死に練習してたしレベル的にはすごく上達したと贔屓目ではなくそう思うよ。もともと立村洋楽とかイージーミュージックっぽいの好きだからね。音楽の勘どころは押さえてる。けど現実はきついよ。あのふたりと比較されたらそりゃしんどいだろうしねえ」
「だが、頼んだのは宇津木野たちだろう。立村がどうであれ、ある意味責任を押し付けたようなものだろう」
「理屈ではそうなるよ。けどね」
首を振りながら入口を見やる古川。まだ麻生先生は見えない。
「気持ちが追いつかないんだよ。立村が頑張っているのはみなわかってる。けどね、私たちは『本物』を知っちゃってるの。完璧さを知っちゃってるの。ほら、あんたのミニコンサート、あれを目の当たりにしてからみな、ハードルが高くなっちゃったってこと」
「俺がハードル上げたのか」
「それもあるけど、やはり宇津木野さんのピアノは私みたいなど素人からしても絶品だよ。あれを聞いたらもう、立村がいくらがんばっても気持ちがね、受け付けないよ。それともっと大切なことはねえ」
古川は言葉を選びつつ続けた。
「宇津木野さんが一部で『ピアノの女神さま』って言われるじゃん? ピアノが弾ける子たちの中でも格上なんだよ。疋田さんも瀬尾さんも上手だけど、宇津木野さんは天才って言っていいくらいなんだよ。耳がいい人にはそれがすっごく伝わってくるんだよねきっと。そして宇津木野さんはその人たち以上にもっと音楽にこだわりがあるんだよ」
「こだわりとはなんだ」
「つまり、立村レベルの音楽が聴くに耐えないものだって感覚の持ち主だってこと」
どう言いくるんでも柔らかく伝えることのできない心境を、古川は代弁した。