12 指揮台にて(3)
保健室について宇津木野をベッドに寝かせるまでの作業は保健室の先生と古川が請け負った。後から追いついた麻生先生とふたり、入口で立ちすくむのみ。
「関崎、お前は偉いぞ」
肩を叩く麻生先生を無視したまま乙彦はベッドに一枚かかったカーテンを見据えていた。女子のことだけに女子が面倒みるのは自然なのかもしれないことだが、自分が何か他に出来ることはないのだろうかと、考える。
「あの時関崎が指揮台で気づいたから、すぐに対応ができたんだ。合唱コンクールとしては辛いことかもしれないが、お前の機転はさすがだぞ」
「麻生先生、よろしいですか」
保健の先生が麻生先生を呼ぶ。入れ違いに古川が乙彦の側に入る。
「大丈夫か」
無言で古川は首を振る。言葉を出さないまま様子を伺うと、
「これから救急車を呼んだほうがよさそうですね」
と聞こえて来る。想像以上に深刻らしい。
「いえ、生命に危険がというわけではありませんがやはり親御さんには安心していただいたほうがいいので電話をかけますね。私も付き添いますが」
それほど焦った様子もなく保健室の先生は受話器を取った。黒い電話のダイヤル音がじりじりと響く。
「お前たち、ご苦労だった。A組の生徒だけ全員教室に戻しているから、お前たちもそこで待ってなさい」
救急車が到着したようだ。三人ほど救急隊員が一礼して保健室に入ってきた。担架を用意し、カーテンの陰で手早く宇津木野を運んでいく。乙彦と古川が一言も会話を交わさぬ間だから、数分程度しか経っていないだろう。
「先生、でも私」
古川が真面目な顔でもって麻生先生に訴えた。
「私、宇津木野さんに付き添いで行ってはだめですか」
「これは大人がすることだぞ。お前たちはいい」
「いえ、できれば僕もそうさせてください」
初めて自分のすべきことがわかったような気がする。乙彦も続いた。
「麻生先生はこれからすぐに救急車に乗り込むんですか」
「いや、クラスにいったん戻ってからすぐ行くが」
「それなら私たちがついていけば先生、安心でしょが」
古川はさらに食らいつく。
「どうせ保健の先生もいるし、現場にいたの私だし、関崎はその状況を一番間近で観ていたわけだし、お医者さんに聞かれて説明できるのって私たちが一番適任だと思うんですよ。先生、いいでしょう、ついていきます、絶対に」
押し問答の末、保健の先生の一言、
「麻生先生はクラスのこともありますから後でお願いします。確かにふたりの言う通りその時の状況を確認する必要があると思われますので、連れて行きましょう」
で、麻生先生は渋々了解した。
「だが、余計なことを言うなよ」
急いで靴を履き替えて救急車を探したが見当たらない。振り返ると事務職員の人が自家用車らしい車を用意してくれたようで、
「とりあえず乗りなさい」
急いで駐車場に向かい乗り込んだ。緑の車で、仕事中に自家用車使っていいのかと心配になったが、
「君たちの気持ちはわかる。黙って、とりあえず病院で麻生先生と合流すればいい」
言葉少なに指示された。二十代半ばの男性職員だった。あまり顔を見かけたことがなかった。
救急車の真後ろに付ける形で連なっていく。
事務の男性は一切話をしない。自然と乙彦は古川と語る格好となる。
「古川、宇津木野の様子はどうだった」
「見ての通り。意識はあると思うけど朦朧としているかも」
背中に背負った時、息ひとつしていなかったのに正直恐怖を感じた。このままだと最悪の事態を迎えるのではと考えざるを得なかった。
「関崎、あん時は担架を待つべきだったと思うよ。結果論だけどさ。動かしたら返って悪化するかもしれないんだからさ」
「今更言うな」
あの時は頭に血が昇りすぎていて自分でも非常識なことをやらかしたと気づかなかったのだ。保健室の様子で初めて理解した自分の勇み足。万が一、宇津木野の容態が変化することにでもなったら、自分でもどう詫びればいいのか。
「とりあえず病院で待機だよ。もう合唱コンクールどころの騒ぎじゃないしうちのクラスも誰も歌いたいなんて思ってる奴いないに決まってる。しっかり宇津木野さんの様子を確認して、ご両親にちゃんと事情説明して、あんたは運んだことを場合によってはお詫びする。この流れだよ」
「だが」
──なぜ。
宇津木野が舞台で卒倒するほどに体調を崩していたのか。無理して学校に来ていたのか。詳しいことは全くわからない。だが、あれだけ顔を引きつらせていた様子からすると相当我慢していたのだろう。
「私も詳しいことはわかんないけどさ。学校に帰ったら帰ったでまた一仕事だよ」
「何をだ」
「燃え尽きてるうちのクラスの連中をしゃきっとさせる必要あるじゃん」
「そういうこと言ってられる状況か。第一今、宇津木野は」
「関崎、あんた今回の合唱コンクールについてどのくらい事情知ってるかわかんないけど、宇津木野さん、きっと追い詰められてたんだよ。伴奏のこととか、自分のピアノのこととか、いろいろとね」
「詳しいことはお前さんから聞いただけだが」
古川はしばらく黙っていた。事務員の人は何も口を挟んでこない。信号前で止まった。前の救急車はそのまま直進していった。
「宇津木野さん、実はね」
ちろちろ横を見ながら、古川は伏せ目がちに小声で囁いた。
「合唱コンクールの伴奏、立村に頼んで譲ってもらおうとしてたんだよ」
──まじか?
言われた意味を把握しかね、乙彦はもう一度尋ねた。
「待て、伴奏をしたくないからということでお鉢が立村に回ってきたはずだが」
「そうだよ。でも、月曜の朝にね」
古川は前の事務員さんに聞こえないよう、乙彦の耳元に口を寄せた。
「美里が見てたんだ。立村を前に疋田さんとふたりで、頭下げてたって」
「頭を下げる? 伴奏を引き受けてくれた感謝の気持ちじゃないのか」
「違う。頼むから、ふたりに伴奏させてほしいってね。今からでもちゃんとふたりならきちんと弾けるから、立村には無理しないでいいって、そんなことを言ってたって」
「でもあいつはちゃんとピアノ弾いてたぞ」
首をぶるぶる振り、古川は答えた。
「立村、断ったから。ここまでやってきた以上きちんとやる。来年はもう伴奏やらない、ふたりでやればいいけど、この一ヶ月全力尽くしてきたから、最後までやらせてほしいって」
車はようやく青潟市立病院前で止まった。