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12 指揮台にて(2)

 ピアノの旋律が流れ出す中みな声を合わせて「恋はみずいろ」の歌詞を追う。

 ──今日一番、出来がいいんじゃないか。

 習った通りに手を両手に広げ、高く掲げたりするがほとんどは感覚だった。たぶんみな、乙彦の指揮する手を見ていない。ただひたすら乙彦の顔ばかり見ている。にやっとしている奴も見つけた。真面目に歌えと言いたい。

 藤沖も、片岡も、古川も、その他の連中もみな、真剣な顔して口をぱくぱくさせている。流れる声が整っているとわかる。もしこれが中学時代だったらどうだろう。みなやる気なさげに手を後ろに組んであさっての方向眺めつつ歌っていたに違いない。

 ──こういうことにちゃんと真面目に取り組む奴、やはりいるんだな。

 中学時代は想像ができなかった。たったひとり、制服も髪型もきっちり整え、ひとり乙彦を優しく見つめていたあの女子に重なる誰かの影がそっとよぎったような気がした。

 ──ああ、俺も歌いたい、ほんとに。指揮者も一緒に歌ったら顰蹙か。

 歌声に没頭していたせいか、立村が全身全霊……見てないがたぶん……込めて弾いていたらしい伴奏にはあまり気を留めなかった。本当はリズムを取らねばならない、ぴたりと合わせていかねばならないと始まる前までは思っていたのだ。しかし実際指揮台の上に経って背中に全校生徒の視線を浴びせられたとたんすっこんと頭から抜けてしまった。気がつけば終わっていた。一年A組の「恋はみずいろ」はあっさり青い空と白い雲が結婚してくれて万々歳。めでたい。

 乙彦はちらと古川に目線を送った。きゅっと口を一本に結んでいる。笑いを必死にこらえていたのはこいつだと一目で気がついた。なんて奴だ。ついでに藤沖たちも見た。無表情を装っている。まだもう一曲あるから仕方ない。いったん区切りをつけて、「モルダウの流れ」を激流化しよう。指揮台から降りて、乙彦は一礼した。少しざわめきが起きたが、すぐに温もりのある気持ちよい拍手に包まれた。

 ──よし、終わった。次も気を抜かずに行くぞ。

 改めて指揮台に昇り、ひと呼吸おく。みな、じっと乙彦の「顔」を見つめてくる。誰も右手も左手も見ようとしない。指揮者の立場としてそれでいいのかとつっこみたくなるがあえて飲み込み、乙彦は両手を掲げた。伴奏者のピアノへ目線を向けると立村が小さくうなづいているのに気がついた。準備は整っている。

 左手だけ勢い付けて下ろした。

 ──モルダウの流れ。

 立村がこの曲を弾く時に見せる極めて厳しい表情が印象に残っている。相当苦手意識持っているのだろう。しかし聞こえて来る前奏の音色は「恋はみずいろ」と比較してずっと深いものだった。乗り越えた、何かがある。乙彦は口を閉じた全員の顔を見据え歌いだしのタイミングで手を下ろすつもりでいた。そんなに長い前奏ではない。ほんの一瞬だったはずだった。


 ──どうした?

 後ろの列でさりげなく目立っている女子ひとり。

 乙彦と目が合った時、突如目を見開いた。普通の表情ではない。よくテレビのサスペンスドラマで見かけるような被害者のように見えた。ドラマならともかく舞台の上でそんな顔をするなんて普通ない。乙彦が迷っているその刹那、その女子は口を大きく開いて何か呻くようなそぶりを見せ、そのままぱたりと前方に揺らいだ。

 乙彦の目線にいち早く気づいたのか古川が振り返り、それと同時に他の生徒も同じく振り向いた。同時に、その女子が口を押さえるようにしていったんのけぞるようにし、そのまままっすぐ前方に倒れていくのを見た。前にいる生徒が思わず避けた。

 ──まずい、頭打つぞ!

 考えるより足が先に出た。それほど広くない舞台、乙彦は指揮台から飛び降り、そのまままっすぐその女子の元に駆け寄っていた。悲鳴とざわめきと慌ただしく蠢き出す先生たちの気配、クラスメートたちの近づくにも近づけない様子。その中でひとりためらうことなく乙彦の隣りにしゃがみこんだのは古川だった。

「宇津木野さん、大丈夫? じゃないか」

「気分が悪いんだな」

 宇津木野だということに、ようやく乙彦は気がついた。顔だけは決して忘れない乙彦の記憶力なのに、なぜかこの瞬間だけは名前を忘れてしまっていた。とにかく寝せたままではまずい。脇で麻生先生が立村を名指しでなにやら怒鳴っている。麻生先生も駆け寄りちらと宇津木野の様子をちらとみやった。音楽委員の女子が袖で不安そうに様子を伺っている中、礼はしなかった。

「申し訳ありませんが、生徒の急病につき一年A組はこれで終了させていただきます。申し訳ございませんでした」

 同時に、

「お前らも早く降りろ、席に付け、いや、とりあえず教室戻れ」

 指示も混沌としている。動揺しているということだけは伝わってきている。乙彦が宇津木野を抱きかかえるようにして頭を上にあげている間に古川が麻生先生に、

「先生、宇津木野さんを保健室に運んでいいですか」

「担架を出そうか」

 そんな暇ない。今完全に宇津木野は気を失っているように見える。一刻も早く保健室に運ぶべきだ。乙彦は首を振り言い放った。

「俺が背負って行きます。走れます」

「関崎、いやそこまでは」

「俺は男ですからひとりくらい余裕で背負えます」

「いやそういう問題じゃなくって!」

 制する古川の言葉も無視した。乙彦は宇津木野を抱き上げるようにして古川と麻生先生に、

「悪い、俺に上手く背負わせてもらえないか」

 頼んだ。しぶしぶ古川も宇津木野に囁きながら本人の手を乙彦の肩に載せ、足を上手く抱えられるようにさばいてくれた。

「関崎、落とすんじゃないよ!」

「まかせろ」

「関崎、とにかくお前少し落ち着け」

「落ち着いてられません!」

 ──人がひとり、気を失った状態だってのに放っておけるか!

 聴衆たちが見守る中乙彦は宇津木野を背負った。幕のない舞台に残された四人の行動は丸見え。声も丸聞こえ。こっぱずかしくないといえば嘘になる。だが目の前で顔を引きつらせて倒れた宇津木野の表情を間近で見た乙彦がそれを無視できたとすれば、相当の冷血漢だろう。乙彦はそのまま舞台から一歩ずつゆっくりと進み、そのまま一気に体育館の入口まで駆け抜けた。このくらいしなくては、絶対に嘘だ。拍手している様子だが根本的にそれは間違っている。今はただ。

 ──宇津木野の回復をひたすら祈るべきじゃないのか。人間として。

 後ろから別の足音が小走りに聞こえる。古川が追いかけてきているのだとすぐに気づいた。

 


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