12 指揮台にて(1)
青潟大学附属高校の合唱コンクールは校外に一切公開されていない。他の高校だと市民会館を借りて大掛かりに行うところもあるようだがこの方針は今だに変わっていないと聞く。乙彦の母も興味津々らしく、なんとかして息子の晴れ姿を見たいとぐちぐち文句をたれていたがしょうがない。これが決まりなんだからしょうがない。
椅子を持って廊下に並び、そのまま一年の最前列にそれぞれ置く。さっさと座って全員が揃うのを待つ。基本的に背の順番だが乙彦は後ろから二番目、最後尾が立村だ。指揮者と伴奏者は出入りの関係もあってはじめからその順番と定められている。隣りには藤沖がいる。しゃべるには事欠かなかった。
──あっという間に俺たちの順番が来るというわけか。
一年A組が先頭バッターを勤めることになるのは当然といえば当然だ。あれだけ一ヶ月騒いでいたくせに、気がつけば一瞬のうちに終わってしまう。あっけないけれども充実した日々だったのだからそれはそれでいいような気もする。
男子の最後尾で立村がじっと楽譜を見つめている。伴奏者はちゃんと楽譜を見て弾くことを許されている。一心不乱と言ってよい。その一方で他の生徒たちはのんべんたらりとおしゃべりに勤しんでいる。
「まああれだよなあ、これ終わったら中間テストだろ。中間終わったら今度は学祭だろ」
「学祭って一年なんもやらんのかよ。学祭実行委員募集あるんかいなとか思ってたが全然やらねえなあ」
「お前知らんのか。学校祭ってのは部活か委員会に人員全部取られちまうから、結局クラスで何か出来る状態じゃあねえんだよ。俺たちだってそうだろ。吹奏楽部の悲しさよ」
──確かに、学校祭の準備はもう少し早くてもいいような気がするが。
乙彦もその点は気になっていた。本来なら合唱コンクールよりも学校祭の準備を早めにやるべきではとも思うのだが、規律委員の先輩たちから聞いたところによるとまともに参加できるのは二年生になってからだという。一年クラスはほとんどが学校内で行う食堂の手伝いとか荷物運びとかそういうことのみだという。自主性なし。もちろんフォークダンスのイベントなんて提案できるわけもない。座談会はどうなんだろう。誰か企画する奴いるんだろうか。
「関崎、何考えてる」
「いや、そろそろ学校祭のことを考えないとならない時期じゃないかと思っただけだ」
「学祭な、そうだ。俺もそのことばかり今考えてるぞ」
三年生が最前列に並んでいくのをながめながら藤沖も頷いた。腕を組んでいる。
「人数が揃えば一度くらい応援団らしい見せ場を作りたいんだが、いかんせんなかなか団員が集まらない。なかなか厳しい」
「お前、スカウトを続けているのか」
乙彦が思わず声をあげると、
「そうだ。興味を持つ奴がいないわけではない。ただ、続かない。何がいけないんだ」
「いけないことはないと思うんだが」
藤沖のふらふら疑惑理由解明。もうこいつの頭には青大附高応援団の大旗を降リかざす未来しか存在しない。古川には後期再選が行われるまでこの状況を耐えてもらうしかなさそうだ。
全校生徒が揃ったところで校長先生、生徒指導担当の先生、さらに審査委員長である肥後先生のお言葉が順ぐりで始まった。前もって聞いていた通り立村が肥後先生のお話が始まる前に立ち上がり、舞台袖に向かい、それについて各生徒たちも続いた。
袖幕に入ると気ぜわしく音楽委員の三年女子生徒が乙彦に向かって説明してきた。
「お話が終わるまでは静かにしていてください。外に聞こえます。また始まりましたら伴奏の人はマイクのスイッチを入れておいてください。伴奏の音を出来るだけ外にも響かせたいので。入れたら絶対に触らないでください。弾き終えたらすぐに切ってください」
細かな指示に立村も頷いている。静かに楽譜を広げ、じっと見据えている。落ち着いているようにも見えるが緊張を隠しているような感じもする。右手を思い切り動かして準備運動らしきものをしつつ、乙彦は立村に近づいた。
「随分お前落ち着いてるな」
はにかむように立村も答えた。ちらと他のクラスメートたちを眺めてから、
「もうどうしようもないしさ」
つぶやきつつ、古川たちの様子を観察していた。古川はというと、他の女子たちに小さな声で、
「みんながんばってきたから大丈夫!」
元気づけるように笑顔を振りまき、男子連中にも、
「あんたらも、麻生先生からのなんかわからないけれど貢物もらっちゃうために、溜まったものここで思いっきり出しなさいよ! まさかと思うけど昨日自家発電しちゃった奴なんていないよねえ」
相変わらずのネタで和ませている。男子たちももう古川の下ネタ女王ぶりに驚く奴はほとんどいない。立村は完全に楽譜の世界に没頭しているし、片岡ひとりが妙に顔を赤らめているくらいのもの。藤沖に至っては乙彦にだけ聞こえるように、
「古川に言われるまでもなく、本来は俺がお前らに指示するべきことなんだろうな」
しみじみとつぶやく。いや、それは評議のする仕事には入らないと思う。乙彦はそう思う。
それほど騒いでいたとも思えないがいきなり、三年女子の音楽委員がきっとした顔で注意してきた。古川がぺこっと頭を下げた。
「静かにしてください。まだ先生たちのお話が終わっていません」
すぐに黙る。もともとそれほど喋っていたわけでもないのであっという間に静まる。ふと気がつくと立村が立ち上がり乙彦に近づいてささやいた。
「ピアノの前からだと少し手が見づらいから、思い切り高く振り下ろして合図してもらえると助かる」
「こんな感じか」
乙彦は腕を振って見た。立村もよく練習したと思うが乙彦も実は家で毎日それなりにやったのだ。家族からは新種の体操の一種かと大笑いされるはめになったが、立村にも何やっているかわかるような振り方ではあると思う。互いに努力は認めてほしいものだ。
ぐぐ、と誰かが笑いをこらえるように口を押さえている。ひとり、ふたり、さんにん。露骨に顔を緩めているのは片岡と藤沖だった。後は怖い音楽委員女子の視線に射すくめられて必死に耐えている。そんなに面白いことをしたつもりは、ないのだが。
「肥後先生のお話が終わったら音楽委員が合図しますので、後ろから一列で壇上に上がってください。列はきちんと、この前のリハーサル通りにお願いします。それと指揮者の方は全員が定位置についた段階でやはり音楽委員が手をあげて合図しますので、それに従って一礼し、そのあとで指揮台に上がってください。それと伴奏者の方はピアノがほとんどカーテンで隠れてますので、挨拶はしなくていいです。その間に弾く準備を整え、譜面は早めに立てておいてください。譜面めくり担当は誰かいますか」
まくし立てる三年音楽委員女子の言葉を右から左に流しつつ、乙彦はいったん舞台に昇る階段の脇に立ち、古川に声をかけた。
「古川の努力が報われると俺は信じてるからな」
「このこの、女殺し、だあれに習ったのさ」
軽口を叩きつつも古川はぐいと親指を立て、
「それじゃあお先に待ってるよ」
そのまま舞台へ向かった。男子も女子も他クラスと比べ人数が少ないからあっという間にみな整う。三年女子音楽委員がさっと手を上げたので乙彦もそのまま歩を進めた。ささやき声やざわめきが微かに館内を満たす中乙彦は舞台正面に立った。
──この光景だ。
自分の身体が震えるのを感じる。
──水鳥中学でいつも観ていた光景。
生徒会副会長の立場上いつも、乙彦は総田たち生徒会役員一同で舞台に上がり、全校生徒にマイクを使って呼びかけていた。内容はほとんどが生活指導やら学校祭やらその他もろもろ。忘れもしない、学校祭座談会。やる気のない連中を目の前にして乙彦が呼びかけた場所も、この舞台に似ている。あの時と違うのはみな、真面目な顔をしてしっかと舞台を見上げていること。乙彦が今までこうであってほしい、こういう眼差しで見上げてほしい、そう願っていた光景だった。
乙彦は自分の知る限り思い切り深く礼をした。最敬礼を目指した。指揮台に足をかけ、あらためて一年A組の面々を見つめた。同じく、今いる十九名の眼差しには濁ったものが何一つ見当たらなかった。
乙彦は思い切り高く手を振り上げ、ピアノの方向に向かって一気に手を振り下ろした。