11 合唱コンクール開始前(1)
──きわめて一年A組は平和だった。
あのインタビューから気がつけばもう一週間。乙彦たちの練習もそれなりに行われてはいたし伴奏もそれなりにだんだん合うようになってきていたしで、あっという間に合唱コンクール当日を迎えた。朝七時四十五分だ。今日は早めにバイトを上がらせてもらった。
「静内、お前なんて顔してる」
朝から完全に顔を角ばらせている静内と顔を合わせた。
「関崎、朝練やらなかったの」
「やってない。それこそ他の部活絡みもあるからな。それにやるべきことは一通り手を尽くした」
まだ八時前。それでも週番の仕事は一応あるので早めに向かったところ、教室から出てきた静内と顔を合わせたというわけだった。
「音楽室が空いてないからしかたなく、一部の人と六時から練習してたんだけど」
「よく教室空いてたな」
「うちの担任に手をまわしておいたのよ」
──静内も結構やることやるな。
乙彦は辺りを見渡した。さすがに合唱コンクールともなればどの学年もみな張り切りだしているようで、なかなか音楽室での練習が難しかったのは事実だ。だが立村のあまりのど下手ぶりを理解したのか肥後先生が優先的にA組のために時間を取ってくれた。立村も練習に余念がなく、今週はなんと電子ピアノを親から融通してもらったと話していた。いらなくなったものを手に入れただけとは言っていたが、それでも自宅で弾けるかどうかとなるとやはり違うだろう。立村の表情は明るかった。
「うちの最重要難題と言われていた伴奏も十分合格点レベルに達したと思うしな。それに歌も俺が聞いている限りでは揃ってきた。もちろん俺の感覚だが。静内の聴覚には多分負ける」
「どのレベルで満足するかよね」
静内はひとつにまとめた髪の毛を後ろに流した。こうやってみると品のある優等生でありそれ以上の何者でもない。乙彦や名倉の前でぶちかますがらっぱちお嬢ではない。しかし聞こえぬように言いたいことはやはり言う。
「たかが合唱コンクールだから多少聞き苦しくてもいいって意見もあるけどね。そういう手抜きが私は許せないってわけ。努力しなくてもいいの、綺麗に歌えればいいって」
「努力しないと歌えないような気がするんだが」
「そうね、でもやる気がなくてもいい声出る人は出るのよ。関崎だってあんた、あれだけ歌うために毎日声楽の発声練習やってる?」
「いや」
「でしょう? 私が言いたいのは、がんばらなくていいから結果出してってことなんだけどね、なかなか上手くいかない。そんなに私求めてること、過激?」
答えに迷う。真実突っ込むべきか。決断した。
「過激だ」
「えー? どうしてよ」
「努力したほうが努力しないよりはずっといい音楽になるような気がする。合唱コンクール終わったら久々に三人でカラオケいって発声練習するというのはどうだ。少なくとも来年のための努力は重ねられるだろう。ただしこれからは俺は歌謡曲よりもクラシックや唱歌などの堅いもので練習しようと思っているんだ」
静内は膝を抱えてその場にしゃがみこんだ。
「貧血か。今から、お前、大丈夫か」
「大丈夫じゃあないよ。関崎、あんたさあ」
覗き込んで気づいた。こいつ、笑いこけてやがる。
大真面目に答えたのに笑いのめした静内を放置して、乙彦は週番のため職員玄関前に立った。まだ七時五十分になったばかり。まだ誰も来ていないのは明白なのだが、あちらこちらで歌声が響く。廊下でも、奥の家庭科室でも、二階からも三階からも。いやきわめつけば職員玄関前からも。
「いやあー、賑やかっすね、おっはよっす」
脳天気な声で挨拶を交わすのはやはり南雲だった。乙彦も「ああ、おはよう」と短く返事する。同じバイト先という面倒なつながりはあるものの、半年経った今ではそれなりにやりとりもするようになった。別に嫌っているわけではないので多少の情報交換もするようにはなった。
「今朝もまた、新しい本入荷してきてるっけ」
「してる。昨日大量に入ってきていた。なんでも明治時代の日本文学を集めていた人が亡くなったとかでトラック一台くらいあるそうだ」
「まじかよそんなの、うちの本屋で誰買うの」
「わからんが、ちゃんとより分けまではしておいた。場所が厳しいので今のところ混じっていた雑誌類だけ出しておいた。たぶん明日以降、店長からなんらかの指示が出ると思う」
「どうもどうも。まああれだよね、そろそろ大学の卒論スパート時期だから誰か買いに来るかもしれないし。参考文献として結構まとめ買いする人もいるって奥さん言ってたよ」
──よくわからないな。
適当に合わせておいた。なんとなくどういう本が売れてどういう本が嫌われるのかはより分けの段階で見当がつくようになってきた。だが話によると、店頭で売れない本も実は陰で好事家がいるとかで、店長の人脈を使って融通することもあるという。まだまだ学ぶことが多すぎる。
「関崎は、あまりうちの店で買ったりしないのかな」
「たまには買うが、最近はまだな」
本当はBCLに関する特集雑誌などあれば是非ほしいところなのだが、無駄遣いはまだまだ許されない我が身ゆえに我慢している。ため息をつく。
「おはよう! 関崎くん早いね、あれ南雲くんもめずらしく早い!」
途中で入ってきたのが清坂美里だった。さっき静内と話をしていたから当然のことながら朝六時から合唱の練習に取り組んでいただろう。尋ねてみた。
「今日は、朝練習してたのか」
びっくりした様子を隠さない清坂。
「うん、してた。A組、やってなかったよね。なんで知ってるの」
乙彦が返事をする前に南雲が割り込んだ。
「うちのクラスもやってるけどなあ。今も練習中だよ。俺、週番だから抜けてきたけど」
「あっそっか。そうだよね。うわあ、C組って合唱コンクール優勝最有力候補じゃない! 難波くんすごいよね。学校に来た時すれ違ったけど挨拶しても全然気づかないの。ずーっと一生懸命片手でタクト振ってる真似してるの! ホームズの真似もぜんぜんよ」
「難波はなあ、もう、命賭けてますから」
──肝心のB組はどうなんだ?
乙彦が様子を伺っていると、頼みもしないのに清坂はぺらぺらしゃべりだした。相変わらずのソプラノトーンで耳に痛い。
「うちは一応練習はしたよ。一生懸命やってるよ。でも今の今になってダメだししても無駄じゃなあい? やることはやった。あとは全力尽くしてがんばろうよ!の一言じゃどうしてだめなんだろう? そう思わない? 関崎くん」
これは難しい問題だった。一応A組の練習は古川とも相談して、昨日の段階で打ち上げとなった。とりあえずは聞くに耐える合唱として揃ったし、反発したりわがまま言い出す生徒もクラスにはいなかったし、なんだかんだ部活のある生徒も時間を見つけて一緒に練習を楽しんでいたようだし、合唱コンクール自体に向かう姿勢は完璧なものだった。ただし、静内に話した通り乙彦の聞いた限りのレベルで丸がついているだけであって、本当のレベルがどんなものだかは判断に迷う。
「俺としては、高いレベルを目指すことは決して間違いではないと思う」
乙彦は重々しく答えた。明らかに不満げな清坂が言い返してきた。
「けど、努力はしてるのよ。求められてるレベルには程遠いかもしれないけど。そのくらい認めてもいいじゃない?」
「きっとそれ以上のレベルに達することができる、と判断しているからみなもっと高みを求めるんじゃないか。中途半端に終わらせることを俺はあまりいいとは思わない」
「けど、それって限度があるよね?」
「自分で自分の限界を決めてはならないと思う。立村がそうだっただろう」
清坂が言葉に詰まるのをしっかと見据えた。すぐに南雲が納得したように「あーあ」と叫んだ。
「だよねだよねそうだそうだ。りっちゃんがんばってたよなあ。この前聞いたけど、めっちゃくちゃ美人のお母さんにしごかれてピアノの練習してたっけ。確かに関崎言う通り、りっちゃんは自分の限界越えようとしてがんばってたよなあ」
「立村くんはそうだけど、でも!」
美里がまた食らいつこうとするのを遮ったのは、規律委員会顧問の先生の一言だった。
「おおい、お前たち合唱コンクールにそんなに燃えているんだったら早く教室にもどりなさい。もう二年も三年も昨日の段階で週番今日に限りなしってことで話、つけにきてるぞ」
三人、顔を見合わせた。そんなの聞いていないが確認する。
「先生、ということは教室で練習しててもいいってことですか」
「そうそう、ほらほら解散解散」
ありがたい。週番がないならやることは一つ、最後の最後のレベルアップ、気持ちよくできればそれでいい。乙彦はふたりに手を挙げた後大急ぎでA組教室へと向かった。まだ八時少し前。余裕で練習できそうだ。