プロローグ 夏休み終了三日前
「おとひっちゃん、夏休みの宿題なんだけど、手伝ってくれないかなあ。俺、もうギブアップ状態なんだ。助けてよ」
雅弘から泣きつかれ、乙彦は駅前の「佐川書店」二階にて大量のプリント用紙とにらめっこしていた。この時期においてこんなに英文の問題を解かされたり数学の問題を羅列させられたりするのはやはり夏休みだからしょうがない。
「なんで少しずつやらなかったんだ?」
「優先順位が違うんだよ。ほら、これ」
雅弘は手元に置いてある、小さな荷車風の木製おもちゃを取り出した。
「一学期に習ったのみやかんなの使い方を実習するのに徹してたらさ、つい」
手にとってみる。小さいといっても五十センチくらいはあるからおもちゃとしてはかなり大きい。少し床を滑らせてみると引き手を馬がひっぱるような格好でリズミカルに走る。手が込んでいることは認める。
「手間がかかったことは想像つくが」
「だろ、おとひっちゃんならわかるよね。俺、今まで本格的な大工道具使ったことなくて慣れるのに結構苦労したんだよ。せいぜい技術の授業ではんだごて使ったくらいだしさ。クラスの奴と比較してもめちゃくちゃ時間かかっちゃったんだ」
「わかった、事情が事情だ、俺がやる」
ざっと目を通した限り、どの問題もさほど難しいものではなかった。毎日青大附高の手間かかる問題と格闘している乙彦にとっては楽勝と言ってもよい。特に英語は、こんなので手こずっていたら青大附高英語科在学生の名がすたる。
「やっぱりおとひっちゃんすごいなあ。まだ三十分も経ってないのに、全部終わらせちゃったんだ」
「俺程度はざらだ。同級生では俺以上にできる奴がごろごろいる」
午前中の冴え切った脳みそがフル回転し、普段よりもさらさら問題を解いてしまった。もともと簡単なものばかりといえばそれまでだが、学校では中ぐらいかさらに下の成績の乙彦にとってはさりげなくプライドくすぐられるものもある。
「そりゃ、青大附高の英語科だったらすごい奴がいっぱいいるかもね」
雅弘は納得しつつ、プリントをまとめながら、
「けど、やっぱりおとひっちゃんが一番すごいよ」
自信を持って言い切った。
──こういう褒め言葉に飢えてるんだよな。
タイミングよく雅弘のお母さんがふたりのためにサイダーとアイスクリームを運んできてくれた。大喜びで食らいつく。
「おとひっちゃん、お昼も用意するからゆっくりしてってね」
「ごちそうさまです」
いつものことだけど、やはり夏場に冷たいものというのは嬉しい。特に早朝労働……みつや書店でのバイト……を済ませ、そのあと少し休んだ後雅弘宅だったからなおのこと。
「みつや書店の店長さんも、いい子を紹介してくれて感謝してるっていつも電話でお礼言ってくれるのよ。陰日向なく働いてちゃんとシフト通り来てくれるって」
「普通のことしているだけです」
謙遜でもなんでもない。ただこうやって褒めてもらえるのが貴重で嬉しい。雅弘のお母さんが階段を降りていったのを確認し、乙彦は雅弘に尋ねた。
「お前夏休み何やってた?」
「ええと、高校の友だちと集まって花火行ったり街に繰り出したり、あとゲームかな。最近流行ってるんだよ」
「ゲーム? オセロとかトランプとかボードゲームとかか」
「おとひっちゃん、それ古いよ、まじでシーラカンスだよ」
雅弘ば爆笑して膝を打った。
「俺の学校工業高校だろ? 青潟の最新技術が結構入ってきてるんだ」
「最新技術か?」
「そう、今俺たちの間で流行ってるのが、マイコンを使ってプログラミングしたりして、いろんなソフトを作ることなんだ。その中に、ゲームも入ってる」
「ゲームを作るのか。いまひとつぴんとこないが、よく喫茶店に入っているゲーム機みたいな奴か」
頭をひねる。イメージつかない。もともと乙彦はゲームセンターもあまり好きではない。
「そう、イメージとしてはさ、うちの中にゲームセンターができるような感じなんだ。俺はあまり詳しくないけど、同級生たちで詳しい奴、いっぱいいるからおじゃまして見せてもらったりしてる。下宿生も結構いるし、潜ることも多いね」
「そうなのか」
工業高校の建築科に進学した雅弘は相変わらずマイペースな学校生活を送っているらしい。中学時代のように毎日顔を合わせるわけではないけれど、確かに少しずつ私服がカラフルになってきているとか、髪型に整髪料を付けるようになったなとか、多少の違いは感じている。それでもしゃべれば中身は変わらない雅弘のまま。普段着の白いTシャツでごろごろしながらアイスクリームに食いついている姿は、全く中学時代と違和感がない。
「おとひっちゃん、この前も聞いたけど、青大附高の学校祭いつ?」
不意に雅弘が顔を上げて問いかけてきた。
──学校祭か。
実を言うとあまり考えていなかった。
クラス評議の藤沖になんとなく聞いたこともあるのだが、
「たぶん何かやるだろうがうちの学校はぎりぎりにならないと何もしない。まあ、古川あたりが考えるだろうから、お前はあまり気にするな」
とあっさり交わされてしまった。乙彦の立場上、規律委員だとあまり学校祭に関わることもなさそうだし、せいぜい「規律」を守るための制服チェックや学外来校者の厳重チェックくらいは参加するかもしれないが。
「何もやらないことはないと思うが、外部の俺には全くわからない」
「へえ、やっぱり外部と内部のめんどくさい関係ってあるんだね」
「だいぶ慣れたがな」
乙彦は指を折りながら二学期以降のイベントを計算した。
「まず、合唱コンクールが九月、学校祭は中間テストが終わってからだから十月、そのあとでたぶん秋のクラス合宿が行われ、最後はクラス委員改選ってとこだ」
「意外と行事が少ないね。うちの学校は合唱コンクールやらないな」
「中学と同じ乗りだったら楽なんだがな」
「おとひっちゃんはカラオケ好きだから、きっと盛り上がるよ」
──いやマイクと生声とは違う。
反論する間もなく雅弘は、工業高校の学校祭について述べた。
「うちの学校はさ、もう準備してるんだ。九月の半ばなんだけど。それぞれのクラスで喫茶店やゲームセンター、お化け屋敷とかいろいろ用意するんだよ。うちのクラスは小さい子たちのためのおもちゃをたくさん作って教室で遊んでもらうキッズルームを作る予定なんだ。俺が作ったものも、そこで使うんだ」
「建築科で、キッズルームか」
意外な取り合わせに、アイスクリームをそのままごっくり飲み込みそうになる。
「地元の親子連れの人たちに楽しんでもらうってのもいいよね、ってうちの担任が提案して、俺もいいかなと思ったんだ。おとひっちゃんも遊びに来いよ」
「いや俺はキッズじゃないからな」
「大丈夫、大人も入ることできるよ」
雅弘は親指を立ててにやりと笑った。再度、
「で、おとひっちゃん、学校祭十月のいつになるか決まったら教えてよ。俺、見てみたいんだ。青大附中には一回行ったことあるけど附高は未知の場所なんだ」
「ああそうだな、一度連れてったよな」
ふと、記憶が遡る。もう二年前になるのか、あの出来事は。
「学校の先輩話してたけど、青大附高の学校祭はいろんな出し物を始めいろんなイベントが用意されていてすっごく盛り上がるんだってきいたよ。俺もクラスの友だちと一緒に遊びに行きたいなあ。別に特別チケットとかそういうのはないだろ」
「ない。必要な学校なんてあるのか」
「あるらしいよ、どっかの女子高だったら」
そっちのほうがはるかに未知の空間だった。
「雅弘、お前やっぱりクラスの連中とつるむこと多いのか?」
何気なく聞いてみると、雅弘は少し首をかしげつつ、
「うーんと、そうだね。クラスも多いけど、友だちの先輩が生徒会に入っていることもあって結構顔出すこと多いんだ。なんか、水鳥中学時代と一緒だよ」
極めてあっさりと答えた。
──雅弘が生徒会に顔出すようになってるとはな。
しかも、誰か友だちに引っ張られてというのが何とも言えない。
「じゃあお前、青潟工業生徒会の居候ってとこか」
「そう、その通り。なんでだろうね、俺、生徒会役員になりたいなんて思ったこと一度もないけど、生徒会室の雰囲気はすごく好きなんだ。水鳥中学もさ、たぶん、おとひっちゃんと一緒だったらかもしれないけどさ」
あっけらかんと雅弘は答えた。両肘をついて、どんぐり眼のまま乙彦に笑いかけてきた。