9 伴奏合わせ(2)
全員揃うのは早かった。乙彦が再度音楽室に向かうと予想通りB組の連中がグランドピアノ周りでたむろっている。慌ててA組の女子数人がアップライトピアノのもとに駆け寄っていきなでている。他クラスには譲らないという強い意思を感じる。乙彦も前から気になっていたことをいくつか、男子数名に伝えて協力を依頼したり、相変わらず燃えている静内に近寄ってふたことみこと会話を交わしたりしているうちに藤沖の、
「時間がないからすぐ始めよう。部活の練習を抜けてきた奴もいるからな」
一声に皆、アップライト前に固まった。いつのまにか立村も指定席のピアノ前に腰掛けて楽譜を取り出している。ぺらぺらした楽譜を並べているので時々譜面台から滑り落ちそうになる。古川もすぐに全員を扇形に並ぶよう指示し、
「みんなもう出来上がってるも一緒だし気楽に行こうよ」
明るい声で呼びかけた。相棒の藤沖が少しきっとした声で注意する。
「調子に乗りすぎるなよ、気が緩んだらどうする」
「なーに言ってるの。うちのクラスに努力と根性なんていらないの。みんな楽しくわいわいやってれば結果がついてくるもんだって」
古川はなだめるように言い聞かせると次に、
「さ、立村も準備はいい? あんたが上手に弾けるなんてだーれも思っちゃいないんだから安心してやりな」
さりげなくひどいことを声かけし、乙彦には、
「関崎も、タクトの準備は?」
あっさり一言。別に指揮者練習の時、棒なんて使わなかった。
「俺は手でいいと思っているが、やはり指揮棒がないとまずいか」
誰も聞いちゃいない。乙彦はすぐに立村へと呼びかけた。
「それならすぱすぱ行くからな、立村、いいか」
「了解」
右手を掲げ、下ろしたと同時に「恋はみずいろ」がゆっくりめに流れ始めた。最近聞いた音色よりもはるかになめらかだった。録音されたピアニストたちの演奏さえ聞いていなければ、きっとこれで満足してもらえただろうに。少し同情したくなる部分もある。適当ながらも手を振るうちに無事終わったが、厳しい古川のダメ出しが入った。
「あのねえ、全然テンポあってないよ。伴奏と指揮者。立村もそうだけど関崎、あんた自分でも少し早すぎるとか思わなかった?」
「このくらいでよくないか?」
正直自分では、それほど間が合っていないとは思えなかった。立村は言い返さず頷くだけ。納得していないわけでなければいいのだが。
「いいわけないじゃん。歌ってて息継ぎかなりしんどかったようちら。もう少しゆったりさ、歌聴かせようよ。それとさあ、立村もあんた自分ひとりでいい気持ちになってるんじゃないよ。ひとりでフィニッシュするのは夜だけにしてよね」
──なんだそれ。
いきなりみな笑い出す男子たちと女子がひそひそ話をする姿。なんだか妙だった。
むしろ問題は次の発言だ。古川はさらに合唱メンバーに、
「けどみんな歌はいいよね。ね? 男子もよくここまでみんな腹から声出してくれるよねえ。男前だねえ。それと女子のみんなも、ずっとパート練習一生懸命してくれたかいあったよ。宇津木野さんも疋田さんも、練習用のピアノ弾いてくれてほんと助かったよ感謝感謝」
思う存分褒め称えている。乙彦の感覚と古川の視点とは大幅にずれているような気がする。ずっと指揮をしてきたがお世辞にも今の歌い方は合格点をつけられるものではない。どこが「歌はいい」なのか。もちろん指揮者も伴奏者もいまひとつであることは認めるが、歌だってどっこいどっこいじゃないか。まだ歌詞覚えてない奴がいたような気がするがあれは気のせいか。
──なんで俺たちばかりああこけ下ろされなければならないんだ。
乙彦の表情がもしかしたら露骨に出ていたのかもしれない。
「関崎、怒るな、あれが古川さんのやり方なんだ」
立村がピアノの側に乙彦を招き寄せ小声でささやいた。
「何がだ。俺はそれほどスピード違反したつもりはないが」
立村だってそうだ。そんなにつっぱしってしまうことはなかった。言いかけたのを立村は制した。
「違う、合唱の人たちに言いたいことを俺たちに伝えて意識させようとしているだけだよ。俺たちよりも他の人たちのテンポがばらばらだからそれが気になったんだろうな。俺も悪かったけど、関崎はそれほど問題があるとは思わない」
「そうなのか」
言われてみると確かに、みな歌うテンポがばらばらだった。特に男子連中は自分たちの歌いやすいリズムに合わせてがなっているだけだ。ここらへんを揃えたほうがいいのではとも思うのだが。古川はやんわりオブラートにくるんだ言葉で褒め続けながら、
「さあさ次、問題の『モルダウ』よね。立村、あんたいい加減音飛ばしたり和音ごちゃごちゃにするのなんとかしなさいよ」
また立村をさりげなくつついた。諦めているのか立村も素直に応じた。
「なんとかする。始めていいかな」
乙彦にも容赦ない。
「関崎も、この曲はおおらかな響きの曲だってこと、あんたくらい歌える奴なら理解してるでしょ。あんたが歌えない代わりにみんなにきもちよーく歌ってもらえるようにしてもらわないと困るわけ。あんたも独りフィニッシュタイプだからさあ」
「古川、褒めてくれるのはありがたいが、独りフィニッシュというのはなんなんだ」。
「じゃあさっさと行ってちょうだいな、さあさ行った行った!」
なんだかごまかされたような気がするが、時間がない。さあ行こう。「モルダウの流れ」をとことん泳ぎきろう。乙彦は手を挙げた。
鬼の下ネタ女王評議・古川の見方はやっぱり厳しかった。
「まあねえ、立村のピアノの腕をもう少し磨けって結論よねえ。てか、ねえ、もうこいつがこれ以上上手になるという見込みってあまりないと思うんだわ。だからさ、私思うんだけどもっともっと歌でカバーしないとさ、まずいと思うわけ。この歌だとねえ、もっと後半のあたりの盛り上がりをさ、ピアノの限界を超えてぐぐぐっと持ち上げる必要あるのよねえ」
──これは言い過ぎじゃないのか?
いくら古川と立村が気兼ねない付き合いだったとしてもこれはひどすぎる。何が「ピアノの限界」だ。乙彦も大して音楽の耳がよいとは思っていない。しかし、「これ以上上手になるという見込みってあまりない」というのは、せっかく本気出して練習を重ねている立村に対する冒涜ではないのか。もちろん古川も立村を支えようとして自宅のピアノを貸出したりしているのだろうしそれはそれでわからなくもない。しかし。
一歩前にでようとしたところで、立村に腕を引っ張られた。顔を見ると首を小さく振る。
「だから、思うんだけど、男子パートをもうちっと、ほんっとに悪いんだけどもうちょこっと腹から声出してもらえると、立村のあらもごまかせると思うんだよねえ」
──そうだ、その通りだ。
乙彦が共感するも、即、藤沖から反論される。
「古川、つまり俺たちの声が小さいと言いたいのか」
すぐ古川は肩をすくめて首を振った。
「なーにあせってるのよ藤沖、あんた、ちょこっと考えなよ。こんな新米ピアニストをこんなすっごい『モルダウ』みたいな大曲弾かせるわけよ。無理じゃん普通じゃあ。けどやっぱうちのクラスだって優勝狙いたいじゃん? 麻生先生だってなんかご褒美出してくれそうじゃん?」
「中華料理付きトイレ掃除だったらノーサンキューだがな」
「そこんとこはうちら評議の交渉にかかってくるんであんたも手伝ってよ。とにかく、ここは本気で一発優勝したいじゃん? となると、マイナス部分をうちらの持ってるプラス部分で隠す必要があるわけ」
「プラスとはなんだ、つまりは」
「合唱部分に決まってるじゃん!うちで勝てるとこったら、ハーモニーのとこぐらいじゃん! 指揮者も伴奏者も新米となったらあとはそこで勝負するしかないよ。それに、いっちゃなんだけどまじで上手いと思うんだよねえ、合唱だけは! だからさ、ここんところを特に男子のみなみなさまにお願いしたいってとこよ。あんたたちならできるって! ね、お願い」
男女ともに大爆笑巻き起こった。古川のいかにもわざとらしいぶりっこポーズ……どう考えてもギャグにしかならない……に、男子代表として反論したかったらしい藤沖も苦笑いするしかない。
「要するに何を古川は言いたいんだ?」
そんなアホっぽいポーズをして笑いを取ってまで、いったい何をしたいのかが乙彦にはわからない。すぐに立村が助け舟を出してくれた。
「男子の声が小さすぎるからもっと恥ずかしがらずに腹から出せと。結論から言えばそれだけ」
「じゃあなんでそんな褒め殺しするんだ」
「露骨にそんなこと言われて気持ちよく受け入れる気になれるか?」
さらっと立村は答えた。即在に古川の、
「じゃあもっかい、『恋はみずいろ』行くよ!」
に黙ってピアノに向かい直していた。各二回、全員で歌い直した。藤沖のように文句を言う奴もとりあえずいなかった。
古川の、
「よーし! 今日はこれでかいさーん!」
終了宣言でみなだらり力を抜いている。なんだか疲れたといった顔だが、たかが三回歌っただけなのに随分体力なさすぎると乙彦は思う。さらに謎の発言が続く古川は、
「すっごく実のある練習できたしね。それに来週いっぱいもっとやんなくちゃいけないしさ、気分のいいとこで今日はおひらきだよ」
──まだ問題てんこ盛りのようだが本当にこれでいいのか。
みなをのんびりと解放してやっている。グランドピアノ側ではB組の静内が、
「もっと力強く!」
「もっとここは余裕を持って。伴奏さんもここはたっぷり思い入れ込めて。少し足りなすぎる」
などと叫んでいるのにこの差はなんだろう。藤沖も今日はやる気まんまんらしく、
「古川、まだ時間があるが大丈夫なのか」
さらに練習したそうな声を出しているが、古川は動じない。
「ほらほら、あんたは暇かもしれないけど他の人たちはそうでもないんだからさ。急いでるならもう行ってもいいからね。またあす、やろうよ。それと藤沖あんたも本当は今日、このままでいいわけ?」
「そんなにいうなら、あすだな。あすこそもっとみっちりやるぞ、いいな」
言っておきながらさっさと音楽室から退散するのがなんだか矛盾ありすぎる。やはりこれは静内の話が正しいのだろうか。このあたりは古川からも話を聴かせてもらったほうがよさそうだ。ちらっと乙彦を誘いたそうな目つきだったが、指揮者がそそくさと帰るわけにはいかない。当然最後まで残るつもりだ。
しばらくA組の部活事情を抱えた連中が挨拶とともに抜け出した以外は、まだかなりの数のA組メンバーが残っていた。古川も絞り込まれた女子たち数人を集めて、
「あのさ、せっかくだしさ、ここでパート練習やろっかね」
などと声かけしている。やはり本心としてはまずいという意識があるのだろう。
立村がさらにささやきかけてきた。まだピアノの前に張り付いたままだ。
「女子のまとめ役は古川さんに任せておけば間違いないよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「あれを見ていればわかるだろ」
ソプラノパートの整ったハーモニーが流れる。ピアノ伴奏なくてもアカペラで十分いけそうなのりだ。立村は続けた。
「さっきの歌の練習でもわかるだろ、古川さんはとにかくクラス誰もが気持ちよく過ごせるようにいろんな言い方で持ち上げて、それでまとめようとしてるんだ。中学の頃からああだったしそれでほとんどうまくいってたよ」
さすが三年間同じクラスだっただけある。しかしそれならばなぜ、
「だが古川は、中学時代一度も評議は」
何度も感じた疑問をぶつけた。確か図書局だと聞いたのだが、これだけてきぱきできるようであればとっくの昔に評議やっていても不思議ではない。
「やってない。ずっと図書局一筋だった人だから」
「それでいてあんなに手際がいいのか。もったいないな」
「だから今、水を得た魚のようにああなっているだろ? 関崎が無理に女子たちの機嫌を取る必要はないよ。むしろ男子たち中心で動いていたほうがお互い楽だと思う。たぶん古川さんの口ぶりからすると、まだ今日の稽古では満足できてないっぽい感じがするんだけどな」
古川には聞こえないようにかなり用心した声で立村は囁いた。後ろではB組連中のかなり気合入った歌いっぷりが響き渡る。ちらと見たが今日は清坂美里もいるらしい。
「そうなのか? ちょっと待て。ならなんであんなに褒めまくる? もう少し注意してもよいんじゃないか?」
どう考えてもこれはおかしい。立村がいくら古川と仲がいいとはいえ、過剰な罵倒にはもう少し毅然とした態度を取るべきだ。立村は首を振った。
「さっきも言った通りストレートにそれを伝えても反発するだけで誰も聞く耳もたないよ。古川さんはそのあたりをちゃんと把握しているから、できるだけみんなをいい気分にさせて、その上で少しずつ改善しようとしているんだ。だから、関崎も気になるかもしれないけど、一切口出さないほうがいいと思う」
「立村が俺の立場だったらどうするんだ」
「もちろん、古川さんのおっしゃるとおりですと答えるさ」
──いつもじゃないか。
吹き出しそうになるのをうつむいてこらえた。
「その光景が目に浮かぶな」
「そうだよな」
立村はまた滑りそうになった楽譜を譜面台の上で整えた。こいつも練習で手を抜き気はさらさらなさそうだ。




