9 伴奏合わせ(1)
乙彦とA組ピアニストふたりの作り上げた録音テープはフル回転で活用されている。みな、素直に朝昼夕の稽古を続けているし、最初のうちは放課後練習もままならないはずだったのだが、それなりに協力もしてもらえそうな状況になりつつある。
古川ひとりで走り回っている状況はあまり変わらないのだが、さすがに乙彦も指揮者という立場上リズムや時折歌い方について一部の男子にアドバイスすることもある。みな、知りたいのは合唱コンクールのためというよりも、今後来るべきカラオケでの技量アップではないかと思わなくはないのだが。
「やっぱなあ、関崎お前すげえわ。こういう声だったらカラオケキングの名前ほしいままじゃん。今度みんなで歌いに行こうぜ」
結論はそういうことになる。結構A組の男子は学校行事に協力的な奴が多い。
合唱コンクールまであと二週間を切り、そろそろ立村との伴奏合わせも頃合かと古川から話が出てきた。朝一番、立村と話をしていた古川が少し離れた場所に待機していた乙彦たちの席に近づいてきて、
「あのさ、今日の練習なんだけど、できれば音楽室でやりたいんだけどピアノ押さえられないかなあ」
持ち出してきた。立村がじっとこちらを見ている。
「ピアノをか」
「やっぱさ、そろそろ立村のピアノと合わせて練習したいんだよね。テープでもいいけどさ、なにせ超一流の伴奏じゃん。それで慣れちゃったらやっぱり本番まずいよ」
──遅すぎる気もするがまあいいか。
隣りで藤沖が頷く。
「言いたいことはわかる」
実際なぜ、一度も立村の伴奏で練習ができなかったかというと仕上がりが遅かったからでは決してない。すでに立村もなんとか伴奏出来るところまで実力をつけてきているとは聞いている。ただ、肝心のピアノを借りることができないだけなのだ。立村ひとりであれば放課後かなり遅い時間まで待って練習もできるのだが、クラスメートにそれを要求することはできない。予想以上にテープでの練習が長引いてしまった嫌いは確かにある。
「だが、一昨日、昨日と音楽室を覗いたがアウトだっただろう」
「みんなあんまり遅く教室に残れないからね。でもさ、一回くらいは生演奏で歌いたいよ。どう思うあんたら」
藤沖と顔を見合わせる。そろそろしないとまずいのはわかっていることだ。ただこれからどうするというのもある。立村がまだ様子を伺っている。
「俺は賛成だ。古川の言う通り伴奏に慣れておかないといろいろまずい」
「もっともだ。ならどうする」
一緒に混じって立村も意見を言えばいいのにと思うが、やはりずっと静かなままなのは何か考えでもあるのだろうか。藤沖がひとつ提案した。
「それなら、帰りの会が終わった段階で全力疾走してもらうしかないだろ。元陸上部よ、一気に階段駆け上がって音楽室を押さえろよ」
反射的に乙彦は答えた。
「いや、俺は規律委員だ。廊下を走ってはいけない」
「堅物だねえ。硬いのはあそこだけで十分なのにねえ。じゃあ、悪いけど廊下を走らないで全力徒歩で音楽室のピアノを占拠、よろしく。あんたならなんとかするでしょうよ」
──全力徒歩、か。競歩の気分か。
「全力は尽くす」
違反カードの対象にならない急ぎ方ならもちろん全力でする。その意思はある。
最後まで立村は様子見しているだけだった。気になるので一声かけようと立ち上がろうとすると、前扉から女子の声が響いた。
「立村くん、いる?」
だいたいわかる。清坂がするりと潜り込んできた。乙彦には幸い目もくれず、すぐに立村に話しかけ外に引っ張り出そうとしている。。すぐ古川が近づき茶々を入れている。
「あんたたちどうしたの、何かまた秘密の相談かしてるの、エッチだねえ」
「そんな、変なこと言わないでよ! あとでこずえにも話すから! 立村くん早く、ほら、こっち」
いやそうな顔もせず立村は清坂に引きずられ教室を出て行った。見送りつつ古川が男子連中に告げた。
「あいついないから言っとくけど、まじで立村がんばって弾いてるよ。たぶん、ある程度はいけるよ。けど、テープとは違うってことはわかってやってよね。それと関崎、あんたもあいつのレベル見当ついてると思うから、あんたがうまくひっぱってよ」
「わかった。それは承知している」
「だが古川、それだと関崎にだけ負担がかかりすぎやしないか」
藤沖が口を出すも、古川は首を振った。
「お互い様じゃないの。ほら、それよか藤沖もそろそろクラスの方中心で動いてもらわないと困る時期なんだからね。わかった?」
約束通り六時間目の授業終了後、乙彦は一目散に……もちろん走らず……教室を飛び出した。今朝は週番だったこともあって規律委員としての義務もある。ただ歩き方がかなりおもしろかったようですれ違う女子数人が笑っているのが聞こえた。
──しかたねえだろ、これが義務なんだ。
階段二段飛ばして昇るのはたぶん、校則違反には含まれないだろう。乙彦が三階の階段を登り終えて音楽室に入ると、ちょうど肥後先生がピアノの蓋を閉じて丁寧に拭いているのが見受けられた。
「あの、失礼します、一年A組の関崎です」
「関崎くん、先日は楽しませてもらったよ」
書道選択の乙彦とはあまり接点のない先生ではある。横に膨らんだ頬を穏やかにほころばせて、
「何の用かな」
おもしろそうに尋ねてきた。
「あの、一年A組でこれから合唱の練習をする予定なんですが、まだ伴奏者とピアノを合わせたことが一度もないんで、今、すぐに全員きますのでピアノ先に使わせてもらっていいですか。もちろん、終わったらすぐに次のクラスに譲ります」
「一Aだと伴奏は、そうか、立村くんか」
すぐに合点がいったらしく、肥後先生はピンクのシャツの襟を立てて尋ねた。
「まだ、伴奏と歌を合わせていないということかな」
「はい。今まではあのテープで」
「そうか。そろそろ立村くんにとってもいいタイミングだね。わかったよ。グランドピアノは残念ながら他の組が昨日から予約をとっているので譲れないが、アップライトならまだ空いている。できるだけ、急いでくれよ」
「はい、ありがとうございます!」
「ああそれと、関崎くん」
また競歩スタイルで音楽室を出ていこうとする乙彦に、肥後先生が引き止めた。
「君は、歌うことが好きなのかな」
「最近は好きになりました。ただ中学時代まで音楽の点数は学科以外全部二でした」
「そうか。君がなんで音楽を選択しなかったのかが少し疑問だったんだが。中学の音楽の先生と喧嘩でもしたかな」
「いえ、いい関係でした。それでは」
こんな無駄話している暇なんてない。乙彦はダッシュで駆け下りた。三段跳びして階段を飛び下りた。もちろん、走らない。
息せき切ってA組教室に戻ると、タイミングよく帰りのホームルームの途中だった。麻生先生が顔をしかめて問いかける。
「関崎どうした。便所でも言ってたのか」
早く終わらせてもらわないとアップライトピアノも他クラスにわたってしまう。急いで伝えねば。
「いえ、実は音楽室に行ってきてすぐ戻りました。六時間目の授業が終わってから音楽室に行って肥後先生に頼んできたところです。今日はどうしても立村のピアノ伴奏で音合わせをしたいのでピアノを優先で貸してもらうようお願いしました。先生申し訳ございませんが、帰りの会を早めに切り上げさせていただけませんか」
麻生先生が吹き出しそうになるのを必死にこらえつつ、
「よっくわかった。それでお前、なんで戻ってきた?」
「帰りのホームルームに参加するのは生徒としての義務です」
即答した。麻生先生もすぐ納得してくれたようで、
「義務か、関崎だなやはり。ということならわかった。今日はとりあえず連絡事項はほとんどないし、さっさと喉からしてこい! 藤沖、号令」
あっさりと終わらせてくれた。合唱コンクールはやはり、教師たちにとっても最重要事項なのかもしれない。