8 季節外れの薫風(2)
家が近くだったこともあって水野五月さんとは何度かすれ違うこともあった。
一番最近なのが夏休み前日だろうか。あの時はこちらから声をかけただけであって直接会話したわけではない。ただ夏服姿のお下げ編みが全く中学時代と変わっていなかったことだけ確認した。真っ白いかすみ草のような雰囲気が、秋を迎えてもそのままであることに乙彦はまず、驚いた。
「関崎くん?」
「あ、あの、お久しぶりです」
思わずどもってしまう。声をかけたのは自分の方なのになぜあせってしまうのかわからない。それでも無視してすり抜けるという選択肢は最初からなかった。しばらく立ち止まった。
「こっちに用事が?」
「ええ、友だちと一緒にさっきまで歩いていてちょうど今帰るところ」
タイミングよかった。うっかり友だちがいたらこんな気軽に声などかけられるわけがない。まるでナンパじゃないか。こんなみっともないところ同級生たちに見られたらどんな噂をされるか溜まったものではない。乙彦は自転車を水野さんの歩く速度に合わせた。
「元気、だったか、聞いていいか」
「ええ、大丈夫」
最初水野さんも少し戸惑ったようだが、すぐに馴染んで話についてきてくれた。冬服仕様のセーラー服は今の天気だと少し暑いのではと思ったりもする。
「あの、うちの学校は今合唱コンクールの真っ最中なんだが、そっちの学校は」
──俺何話してるんだ。いったい。
「合唱コンクール?」
水野さんが首をかしげた。少し考える風な粗びりで立ち止まり、
「合唱祭というものはあるの。市民会館借りて行うのだけど」
「市民会館? 本気なんだ」
驚く。青大附高の、気合に似つかわしくないシンプルなやり方……一切外部に公開しない……と比べてこの差はなんなのだろう。女子高だからだろうか。歌うのが好きな生徒が多いからだろうか。
「でもまだ先。十一月を予定しているの」
「そうか。うちの学校は今月の第四金曜なんだが、人に見せないにもかかわらずみな真面目に練習しているんだ。俺も指揮者やることになったし」
「関崎くんが指揮者? いいと思うわ」
少し首を傾げて考えた後、水野さんは頷いた。そうあ、いいか。
「そっちは?」
「やりたいという人もいるけれど、あまり興味ないという人も多いわ」
言葉控えめに水野さんは答えた。
「もともと、学校に来る人と来ない人がはっきり分かれているから、クラスで何かをするといった雰囲気があまりないの」
「水野、さんは学校に行く人なんだ」
「そう。だって」
言葉を抑えるようにして、水野さんはつぶやいた。
「あんなに高い入学金と月謝、その他いっぱい払ってもらっているのに、いい加減な生活なんてできない」
──そうだ、そうなんだ。私学はそうなんだ。
恵まれ過ぎて忘れかけていた感覚が蘇った。
──俺は、贅沢出来る身分じゃないんだ。
水野さんが公立高校受験に失敗し、いわゆる滑り止めの私学・可南女子高校に進学せざるを得ないと覚悟を決めた時、乙彦はその場にいた。同じ私学へ進学するにしても、青大附高の学力レベルとは全く異なる可南女子高への進学。決して明るい材料ではなかったはずだ。その後可南女子高校に関しての噂をちらほら耳にするが、信じがたい授業態度や出席率の低さ、あの霧島も言っていたではないか、「青潟の女子刑務所」と。
──ろくでもない環境なんだろう。その中で、それでも水野さんは。
染まっていない。制服も乱れなく着こなし……可南女子高校の校則はよくわからないが乙彦が見る限りはスカーフが極端に短かったり髪にパーマがかかっていたりとかそういうことはないので憶測だが……中学時代の生活委員時代と変わらぬ真面目さを保っている。
「あ、そうだ。俺今、規律委員なんだ」
──いったい何言ってるんだ俺。
思ったことが口から飛び出してしまう。脈略なさすぎる。また心臓がばこばこ言い出す。
「規律委員?」
「いわゆる水鳥中学でいう、生活委員なんだ、水野さんがやってたのと一緒だ」
かなり意味不明なことを口走った自覚はある。女子と話すことについては中学時代よりもかなり鍛えられたと思うし、実際抵抗は少しずつだがなくなっている。しかし、静内や古川をを相手にするようながらっぱちのことも言えるわけがないし、清坂を相手にするときのようにさっさと話を済ませて追い払いたくなるような違和感もない。とりあえず一緒に歩くことは問題ない。できればこのまま歩いていきたい。だが、会話そのものが選べない。かつて水鳥中学の生徒会副会長と真面目な生活委員というつながりであればそれなりに共有するものもあるのだが、今はあまりにも遠い。
「遅刻する奴に違反カード切ったりとか、制服の乱れをチェックするとかやってるが、近いうちに手芸関係の行事も参加するらしいんだ」
「手芸? 生活委員が?」
ぽかんとした顔で水野さんは固まった。それは乙彦も最初聞いた時そうだったから驚かない。
「俺もよくわからないんだが、ファッション関係に詳しい生徒がよく担当する委員会らしいんだ。俺もこのまま後期、規律委員でいいのか迷ってるんだよな」
「私も、たぶん困ると思うわ」
──そうだろうそうだろう、水野さんだってそう思うに決まってる。
乙彦なりに懸命に絞り出した話題で、幸い水野さんは素直に頷いてくれている。露骨につまらなさそうなことも言わないし、いきなり肩をばしっと叩いたりとかもしない。ごく自然な女子の話し方をしている。
──水野さんはどこへ行っても変わらないんだな。
汗をかきながらいろいろなネタを引っ張り出し、帰るとか言われないかはらはらしつつしゃべっているけれども水野さんはそのまま家の近くまで歩いてくれている。あともう少し歩けば分かれ道だ。もう、話す機会などないのだから言いたいことすべて言ってしまってもいいような気がするし、言いたいことがなんなのかすら、自分でもわからない。
また思わず飛び出してしまった言葉。
「あの、知ってるか、水野さん」
「何を?」
「あの、雅弘の学校祭、今月末だって」
──俺は本当に何から何まで何やってるんだ!
一瞬にして後悔した。水野さんと雅弘は、中学卒業とともに交際を終わらせているはずなのだ。そんなことわかっていて、なぜ、どうして、こんなことを口走ってしまったのか。せっかくここまでゆったりのんびり歩いてこれたのに、なぜそんな非常識極まる言葉を。
水野さんは穏やかに受け応えてくれた。
「そうなのね。工業の学校祭が今月なのね」
「ああ、子ども向けの何か、やるらしい」
「佐川くんはどうしてるのかしら」
「かんなと金槌とのこぎりで苦労しているらしい」
表情も変えず、楽しそうに微笑んでくれた。乙彦の全身後悔の汗だく状態を気づかない振りしてくれたと信じたい。
「関崎くん、青大附高の学校祭はいつ?」
話の方向を変えてくれて助かった。乙彦は力強く答えた。
「十月下旬か十一月あたりなんだ。よかったら、友だち連れてきてくれれば。俺もよくわからないんだが、大学や中学も含めて盛り上がるし、ピアノの学内発表会もあるらしいんだ。たぶん、水野さんなら楽しめると思うんだ」
別れ際、水野さんは微笑んだ。はつかねずみのような表情はかつてとまったく変わらぬままだった。、
「ありがとう。できれば、友だちと行きたいわ」
クラスの行事がどうなるのかわからないが、もし飲食関係のイベントだったらためらうことなく乙彦は接客に参加することになるだろう。あとでこっそり藤沖にでも学校祭の詳細について聞いておこうと決めた。合唱コンクールが終わるまでは何もできないかもしれないが、準備するにこしたことはない。他の高校でうちの学校の学校祭に来たがっている女子がいると話せば、それなりに教えてくれるだろう。あとで水野さんにチケットかチラシか何か送ることに決めた。向こうが希望しているのだから、当然だ。




