8 季節外れの薫風(1)
土曜日の授業が一段落したあと、乙彦はこのまま家に帰るつもりだった。昼ごはんを食べてからは久々に少しゆっくりしたい。外部三人組同士の集まりも今日は遠慮することにした。身体も頭もここのところみしみしする。
──なんでこんなに俺を見るんだ?
あのミニコンサートが終わってからというもの、青大附高で乙彦に向けられる眼差しには明らかに違いが出てきたような気がする。クラスで不本意にも目立ってしまっているのはもう仕方ない、覚悟もしているがなぜ、三年の女子先輩たちからも興味津々の体でいろいろと噂をされなくてはならないのだろう。おもしろげに笑っている。
──あの場に結城先輩やその他の先輩たちは確かにいたが、だからといって全校生徒に知れ渡ることをやらかした気はないんだが。
気づいたが今回はあえて知らんぷりを通した。藤沖にばれてみろ。また意味もなく兄貴風吹かせられるはめとなる。
せっかく宇津木野と疋田が渾身込めて弾いてくれたテープを活用しない手はないと、古川は毎日休み時間と朝夕のホームルームを使って毎日流している。麻生先生も苦笑しつつも、
「音楽はビタミンだと思えばな」
などとわけのわからないことを口走る。乙彦からすれば自分のどら声を毎回聞かされるわけだからあまり楽しいものでもない。気持ちよく歌っているうちはいいのだがテープに録音した声はどことなく違う。他人が気取っているようであまり好かない。
今日の放課後練習はなし、ということで乙彦が安心して教室を出ようとしたところ、立村が静かに荷物を整理しているのが見えた。
「立村、これからどこに行くんだ?」
藤沖も古川もいない教室、立村は穏やかに答えた。
「古川さんの家でピアノ弾かせてもらうつもりなんだ
「そうか、練習しているのか」
「当たり前だよ。あんなすごいの聴かされたら、俺もプレッシャーだし」
はにかむように言う立村の言葉に、乙彦も思わず頷いた。そうだった、あれから二日経ったけれども立村にはなかなかこの件で話しかけづらい状況が続いていた。乙彦の高評価とは裏腹に立村に向けられる視線は、怒りこそないけれども哀れみに近いものがあった。あえて誰も何も言わないで、ひたすらに宇津木野・疋田コンビの名演奏に聞き惚れるのみ。立場がないったらない。
「いや、俺もこの点はお前に誤解させてしまったようで申し訳ない。俺としてはただ、立村の参考になればと考えていただけだったんだが、かえって縛り付けるようなことになってしまった。読み違いだった」
まず謝った。
「関崎は悪くないから気にするなよ。俺が練習すればいいだけの話なんだからさ」
いやそういうわけにはいかない。なにせ自分は、
「自分が指揮者として練習する以上、お前にとことん合わせる。一緒にがんばろうな」
──指揮者。歌うのが自分の仕事じゃない、そこなんだ。
一緒に教室を出た。C組連中の調子っはずれの声がA組前の廊下まで響き渡る一方、隣りのB組は実に静かだった。誰もいない。もちろん帰ったとは思っていない。静内、エキサイトしすぎるなと心の中で釘をさしておく。外に出て青い空のもと、のんびりと肩を並べて歩いた。立村と緊張感なくしゃべりながら歩くのは久々のような気がする。
「明日もピアノの先生に習いに行って来るから、月曜からは普通に伴奏できるレベルにたどり着ければな」
しみじみと立村が語る。楽しげに見えた。
「家ではどうやって練習しているんだ? 古川から借りたキーボードか」
「それだけじゃない、この前のテープあるだろ。あれを毎日聴いてる。ひたすら聴き込んで、少しずつ耳慣らしているんだ」
「耳慣らしとはいったいなんだ?」
「ピアノの練習方法。毎日のようにひたすらテープで音を何度も聴きとって、それをまねて、なんとなくこんな感じかなって練習していくとなんとかなるんだ。関崎の歌にひっぱられそうになるけれども本番は全員の合唱だからその点覚悟もできるしさ」
──確か立村、英語の勉強も似たようなやり方でやってるとか言ってたな。
やはり近いうちにBCLについて話をしてみよう。乙彦は促した。
「そうなのか。だが俺が思うに立村、お前は別にあのふたりと同じレベルを求める必要はないんじゃないかと思う。俺もピアノの世界はちんぷんかんぷんだが、たぶん音大かどこか行くつもりなんだろう。そういう奴は毎日五時間くらいピアノを練習して、スパルタ音楽教師にしごかれて毎日苦労していると聞いている。それも小学校入る前から厳しい特訓ともな」
立村の秀でた語学能力を持つのであれば、もちろんその努力も実るだろう。しかし、こう言うのもなんだがピアノ技術についてはそこまでの高いものを求められない現実もあるのではと思う。なんだか立村はあのコンサートをきっかけに自分を追い込み過ぎて心壊れそうになるのではないかと、ふと心配になる。
「ずいぶん詳しいな」
「いや、学校にひとりかふたりはそういう奴がいるだろう。俺からすると耐えられたもんじゃないが、そういう音楽漬けの生活を送っている人と、こういったらなんだが自己流で練習している立村を比較するのはやってはいけないことだというのもよくわかっている。俺は、お前が自分から伴奏をやりたいと言い出したことそのものに価値があると思っている。たとえどんなにテンポを崩そうが間違えようが俺はお前を責める気などない。とことん俺がフォローする」
「ありがとう。恩に着る」
自分の得意分野とはどう考えても思えない「ピアノ伴奏」にあえて取り組もうとするその心意気を、乙彦としては支えてやりたい、そう思った。密かなる燃え盛るものがきっと隠れているのだろう。立村は乙彦をじっと見上げ控えめに笑顔を見せた。
古川こずえの家で清坂美里も交えて熱心に練習する立村の姿を想像しつつ、
──だが、あの間、当然浴びせかけられているんだろうな。
さりげなく同情したくなる。立村の性格上露骨な下ネタを楽しげに受け答えするようには見えず、それどころか冷ややかに言い返す姿も目にする。まあ古川との長い付き合いというのもあるのだろうが、はたして古川は立村に天下絶品の下ネタをどのくらいの分量用意しているのだろう。
自転車置き場で立村と別れ、ゆっくり家に向かい漕ぎ出した。青大附高の校門を出て右に曲がり少し進んだところで、あまりこの近辺では見かけない女子のセーラー襟が目に入った。青大附属は中高ともにブレザーだし大学生は私服なので、それ以外の制服はまず目立つ。お下げ編みの女子がすっすと歩いているところを車道に沿って追い越そうとした時、ハンドルを握る手が一瞬止まった。
すぐ歩道にぴたりと寄った。
相手はまだ、気づかない。冬服の制服なのか、はっきりと濃い紺に白いスカーフが揺れている。きっちりと束ねた乱れのないお下げ髪。乙彦は自転車から降りた。歩道に乗り上げた。喉に巨大な野球ボールが押し込められたようで、声を出したくとも出てこない。かすれた妙ちくりんな声で、一言だけ発した。
「水野さん」
夏休み一日目に見かけたあの時と同じ柔らかな微笑みが返ってきた。