7 録音作業(3)
音楽室に足を踏み入れた瞬間、何が起こったのかがよくわからなかった。
──なんなんだ、この人数。
一年A組が全員揃っているのはまだわかる。ライバル心あふれるC組評議三羽烏をはじめとするみなみなさまが揃っているのもまだ理解できる。いや一年全員がいるのもかなり無理して理解ができる。
しかし、なぜここに、二年、三年の生徒たちまで集まってきているのだろう。しかも後ろで楽しげに手を振っているのはかの「日本少女宮」マニアの結城先輩ではないか。
──なんで先輩たちまで集まってきてるんだこれは。
もちろんその他規律委員の先輩たちも混じっている。はっきりしているのは音楽室の席が足りないのでみな立ったまま聴くことになるであろう、それだけだ。
今だ状況が把握しきれない乙彦の隣りで、麻生先生の挨拶が始まる。一年A組担任としての義務であろう。なにせ職員会議を延期してきたのだから。
「それではただいま会議を一時休止して、一年英語科が送るハプニングミニコンサートと行くわけだが、まずは紹介だな。まず、我がクラスの誇るピアニスト二名、そして今回特別にソロデビューを果たす関崎。これだけお客さんに集まってもらったら燃えるだろう、な、関崎?」
「もちろんです」
反射的に答えたのみ。そう答えるしかない。古川がいつもの調子で合いの手を入れる。
「公開本番だもんねえ、そりゃ燃えるよねえ」
「こら、古川お前も女の子なんだから」
いつのまにか疋田、宇津木野の両名が乙彦の隣りに並び丁寧な礼をする。いつのまにか準備はちゃくちゃくと進んでいるようで、肥後先生がラジカセとカセットテープをセッティングし、マイクをなぜかピアノの上に載せた。
「迫力があるほういいからね。では、初めてくれるかな」
「はい」
まな板の上の鯉とはこんな気持ちのことを言うのだろうか。奏でられた「恋はみずいろ」の前奏リズムをつま先で取りながら、乙彦は疋田に合図を送り歌い始めた。たぶん、間違えないですんだと思う。生の演奏はカラオケの音とは違う深みがある。
みな、静まり返っている。自分の発する声だけが朗々と響く。
拍手喝采沸き起こる中すべきことは。
乙彦はすぐに疋田に向かい礼をした。
「ありがとう。ピアノの音がこんなに歌いやすいとは思わなかった」
「関崎くん、やはり本物だったね。私も楽しかった」
笑顔を浮かべる疋田がすぐに立ち上がり、脇でスタンバイしている宇津木野と、
「じゃあ、あとはよろしく」
「うん」
短く言葉を交わして聴衆の中に混じっていった。
「あの次も、よろしく」
宇津木野は長い髪の毛で頬を隠すようにして、
「私の方こそ」
小声ではにかみながら答えた。次は「モルダウの流れ」。
──なんだ、なんか違うぞこの音は。
最初の一音が響き渡った瞬間、疋田が弾いた時とは違うざわめきが起きた。
決して邪魔するようなものではなく、なんとなく空気が揺れただけのことだが。
すぐにみな静まり返り宇津木野の演奏に聴き入り、誰ひとり言葉を発しない。
立村のたどたどしく弾く音色と比較してはいけないとわかってはいても、やはり歌うタイミングを逃しそうになる。そう、曲の醸し出す大河の流れに乙彦の声自体が押し流されそうな感覚がある。まずい。飲まれてはならない。宇津木野のちらと乙彦に向ける頷きの合図でかろうじてタイミングを逃さずにすんだ。このリズム、やはり慣れないとまずい。
──なんだか身体の奥底を叩きつけるような感じがするんだかなんでだ。
理由などわからない。こちらはひたすら声を張り上げるしかない。幸い誰も笑わないからいいようなものの、下手したら宇津木野のピアノに食われてしまいそうで焦りも出てくる。波、ひたすら波。溢れ出るような高まり。これってなんなのだろう?
今まで感じたことのないリズムの変化に戸惑いつつも、なんとか無事歌い終えた。間違えなかっただけでいいだろう。しかし疋田もそうだが宇津木野の弾いた渾身のメロディーを使いしばらくは合唱練習が繰り返されると考えると、すぐ側で小さくなっている立村の立場が痛々しい。あとで乙彦なりのメッセージを伝えておかねば。
「さすがだ、関崎くん、お見事だ!」
拍手が再び沸き起こりなかなか止まない。結城先輩のブラボーも拍手である程度ごまかされている。カラオケボックスでもこんなにアンコールされそうなのりの反応あっただろうか。とりあえず宇津木野に近づき礼をし、思わず目を潤ませている様子に対応を迷っているうち、後ろで乙彦の肩を抱く奴に引き戻された。ひとりしかいない。
「とうとう、一般公開しちまったな」
「いや、そんなつもりではないんだが。だが生演奏はやはり最高だ」
まだ歌った後の全力疾走感が抜けない乙彦としては少し息を整えたかった。隣りには片岡も笑顔いっぱいに乙彦を見上げている。みると女子たちは疋田宇津木野両コンビを囲み、すごい、すごいと繰り返している。脂ぎった額をハンカチでぬぐいつつ、今度は麻生先生も乙彦を囲む輪に加わった。
「ああ、なんだろなあ、うちのクラスにはこういう隠れた才能がばりばりあるってのになあ。これこそ合唱コンクールで出すべきだよなあ。藤沖どう思う?」
「俺も賛成です。関崎、これからはお前が我がクラスのマイスタージンガーだぞ」
「藤沖、マイスタージンガーってなんだ?」
「直訳すれば、私のスターの歌手だろ」
「お前ら、少し教養っつうの勉強しろ! いいか、マイスタージンガーとはだな、ワーグナーの有名なオペラの題名だ。図書館に行って調べてみろ」
他クラスの男子たちも近づいてきて感想を口々に語りかけてくる。今まで一度もしゃべったことのない奴も混じっている。別クラスの担任教師も近づいてくるがさすがに野々村先生と一緒の静内はまだよってこなかった。それにしても名倉がいないのが残念だ。
ふと、目の前で立村がラジカセをいじっている。カセットテープを入れ替えるようなことをしている。そうだった、忘れていた。本当はもう一度歌わなくてはならないのだ。
「おい、忘れてた、立村」
立村はすぐ振り返った。少し申し訳なさそうな顔をしている。
「何か」
「お前に頼まれてたこと忘れてた、悪い。これからもう一度歌わないとまずいだろう」
乙彦の顔を見てまた立村は困ったようにうつむいた。側からいつのまにか近くに来ていた静内が問いかける。
「なんでそれやんなきゃいけないの」
「ああ、さっき、立村に自分の練習用にもう一本テープを録音してほしいと頼まれていたんだ。それで一本目は保存して、二本目は入れ替えてと、そういうつもりだったんだ。立村もさっきテープ入れ替えてただろ?」
静内が胡散臭げに立村を見やる。このふたりどうも相性があまり良くないようだ。まだ言葉も交わしていないだろうに、先入観で決め付けるのはよくないと思う。押されたのか立村も慌てたように首を振り、
「いや、いいよ。あとで古川さんにテープダビングさせてもらうし。それに関崎も疲れているだろうしさ」
ねぎらった。それごらんとばかりに静内も続ける。
「こういったらなんだけど、関崎、あんた調子にのって喉壊したらどうするの。少し養生しなよ。無理することないじゃないの」
「だが約束したからな」
「約束なんて、あんな」
またちらっと立村を見やる。なぜか立村には女子を近づけない防虫剤のようなものが降りかかっているようだ。いろいろな諸事情が絡まっているとはいえ、立村がかなり哀れに思える。静内はさらに、A組の女子たちにさりげなく、
「自分を大切にしなってことよ。ね、そう思うよね」
つぶやいた。効果てきめん。女子たちが改めて疋田宇津木野コンビを囲み、
「そうだよねえ、結局立村くんのためだけって冗談じゃないよねえ。ふたりとも一生懸命この時のために全力投球したんだから義理、ないわよねえ」
あっという間に静内の言い分を受け入れている。やはりこれだと清坂に勝目はなさそうだ。折を見て立村に助言しようと密かに決めた。
様子を伺っていた麻生先生も、
「まああれだ、今日はこのあと別のクラスが稽古控えているんだし、今日はさっさと引き上げないか。練習するなら教室でやればいいだろう。テープについてもまああれだ。こういっちゃなんだが立村にここまでの技量は誰も求めてないだろう。お前は自分のできるところまでやればいい」
立村に近づき、穏やかに語りかける。普段立村に向けるきつい口調とは全く別だ。乙彦にも同様に仲介する。
「それは関崎も同様で、新たなチャレンジの指揮者準備に時間を費やしたほうがいいんじゃないかな」
「ですが、やはり約束は」
「いいじゃないか。また続きは教室でやろうじゃないか」
どうやら麻生先生は一刻も早く職員室に戻らねばならないらしい。ピアニストたちもあまり気乗りしないようでただつっ立っているだけ。これは無理強いできそうにないかもしれない。しかし立村のテープのことを考えるとどうだろう。乙彦が改めてたのみこもうと決意した時だった。
「伴奏が大変なら私が代わりに弾いてもいい?」
突然、聴衆の中から声が上がった。同時にするすると乙彦の前に小柄な女子が現れた。顔は知らない。真剣な眼差しに圧されてしまう。
「え、あ、あの?」
その女子はくいと唇を引き締め、きっとした口調でひとつの提案をしてきた。
「私もちょっとなら初見演奏できるし、楽譜見ればある程度のところまではいけるから」
C組男子たちがざわめきだした。誰がとはわからないが、少なくとも天羽が、
「瀬尾ちゃーん、どうした、ピアノの練習で勝負かよ。まだまだ勝負の時は早いぞ」
口を挟んできたことだけは気づいた。瀬尾という名の小柄な女子はあっという間に疋田・宇津木野から楽譜をひったくり、改めて乙彦の前に立ちはだかった。
「ピアノを一曲弾くとなると体力を消耗するのは私もわかる。だったら代わりに私が弾いてもいいよね。目的は録音するだけなんでしょう。同じ曲ならそれでいい?」
ぜひに、と言おうとしたところで野々村先生が割り込んだ。
「瀬尾さん、あの、先週はごめんなさい」
「先生には関係ありません」
あっさりいなして瀬尾はすっとグランドピアノの前に座った。C組男子女子みな、期待半分不安半分といった顔で様子を伺っている。戸惑っている聴衆は誰も帰ろうとしない。
瀬尾は改めて乙彦に指示した。
「マイクの準備をお願いします」
「なら俺も歌って、いいのか」
確認すると、瀬尾はにっこり微笑んだ。
「もちろん!」
疲れなんかどこか行った。のど飴なんかなくてもいい。ここまでやる気に満ちあふれた伴奏者が立候補してくれるクラスに勝つなんてことは並大抵のことじゃないだろう。流れだした「恋はみずいろ」も、次に続いた「モルダウの流れ」も、さっきの宇津木野の演奏ほどではないけれども立村よりは遥かに歌いやすく心地よかった。レコード、カラオケ、リズムの整った伴奏でなめらかに歌うのは、確かに身体が安らぐ。
──C組、この伴奏で勝負するのか。立村、がんばれよ。
「さっすが瀬尾ちゃん、お見事!」
今まで遠慮がちだったC組男子連中が全力拍手を送り、一方でA組連中や静内が乙彦を改めて囲み上気した表情で感動を示す中、立村ひとりが静かにカセットテープを回収していた。あいつもこれから録音したテープを何度も聞いて練習するのだろう。
──俺の歌が役立つか邪魔かは立村の感覚次第だが。
改めて瀬尾に頭を下げ、感動を分かち合ったのち乙彦は立村に語りかける言葉をまとめた。
──あれだけ立派なお手本が手に入ったんだ。立村だってあいつなりに精一杯の演奏をしてくれるはずだ。俺も次は指揮者としてベストを尽くす!