6 独唱(5)
名倉が暇を持て余した格好で開いている席についてぼんやりしている間に乙彦は、立村と一緒に教室最奥のアップライトピアノへと向かった。比較的つややかではあるが、音楽室前方で合唱練習を繰り返しているB組集団の使用しているグランドピアノとは質感が違う。慣れた手付きで立村が蓋を開け、鍵盤にかかっているフェルトをたたんでいるのを眺めていた。気づいた静内が片手を挙げたので頷いておいた。
立村が「恋はみずいろ」のメロディを奏で始めた。B組の生徒が弾いている曲と混じり合いそうだがあまり気にしない。数回同じ小節を練習した後、今度は和音を押し直していた。それなりに曲にはなっている。
「立村、これ、自分ひとりで練習して弾けるようになったのか」
ピアノに向かったまま立村が頷いた。
「厳密に言うとそうじゃないけど、まあ、ある程度は」
「だったら、本番まではなんとかなりそうなのか」
「弾くだけならたぶんね。ただ、これから合唱と合わせなくてはならないからさ」
もっともだ。さっそく合わせよう。乙彦はすぐ答えた。
「一応指揮の方法は先生から習ったんだが俺には全く何がなんだかわからん。本当なら歌うだけに専念したかったのだが、藤沖があそこまで言うのなら仕方ない。なんとかしなくてはならない」
立村が首をかしげ、ちらと乙彦を見やった。思い出すかのように、
「俺の記憶だと伴奏の時誰も指揮者のほうなんて見てなかったような気がするな」
「それはないだろう?」
「いや、そうだったと思う。みんな好き勝手に合わせて歌っていたし俺がやってたのは歌うタイミングを計ることと、とりあえず盛り上げる時は手を大きく広げるとか、最後とめるところを間違えないようにすることくらい」
「本当にそれでいいのか。俺たちも合唱コンクールは経験したがかなり熱心にやったぞ。とりあえず合わせてみるか」
「そうだね」
立村はさっそく指を鍵盤に載せ、「恋はみずいろ」の演奏を始めた。ちゃんと両手で弾いている。あぶなっかしさはあるがとりあえずつっかえてはいない。譜面台に載せた楽譜を見据えつつ、ゆっくり弾いている。
「だいたいこんなところだけど、ちょっと弾き間違えた。ごめん」
最後まで弾き終えた後、立村は照れくさそうに下を向き、改めて微笑んだ。
「俺もよくわからないんだが、指揮者のほうを本来は伴奏が見てやるんだろう」
「そう。本番ではそうしないと」
「とにかく俺がやらねばならないのは、曲を完璧に覚えて、どのくらいのスピードで持っていくかを決めないとまずいということだな」
「そうだね。テンポは関崎が決めてくれないとまずいよ。俺もそれに合わせられるかという問題もあるんだけど。中学の合唱コンクールではとにかく、スピードだけは歌いやすいようにするよう練習したよ」
「テンポか」
指揮者練習の時に指導生徒から口酸っぱく言われたのが、「テンポを乱さない」ということだった。立村も指揮者の顔など見ないとか言っているが本来すべきことは把握しているのだろう。乙彦は指先を動かしながら何度かピアノの前を往復した。自分なりにテンポを把握してみた。立村の弾いているペースだと心なしかゆったりしすぎているような気がする。実際これで合わせるとなると、歌い手はかなり呼吸に気を遣わねばならなさそうだ。
──実際歌わないと、テンポも何もないんでないか。
早めに古川と相談して、クラス連中と合唱練習をしないとまずいような気がする。だが立村もまだたどたどしい弾きっぷりであることは確かだし、ひっぱられてかえってしくじってしまうかもしれない。それであれば、ひとつ、いいことを思いついた。
──俺が歌えばどうだ?
「ひとつ思ったんだがやはりここは歌がないとつかめないだろ」
「確かに、合唱とあわせたらまた変わってくるだろうしさ」
立村も承知しているようだ。さっそく提案だ。乙彦は切り出した。
「だったらこれから俺が歌って見る。立村、それに合わせてやってみてもらえないか?」
立村は怪訝な顔をして乙彦を見た。そんなに露骨に驚かなくてもいいだろうに。
「そんなに変か? いや俺としては、実際歌のテンポがどのくらいかを確認するなら生歌でやるほうがずっといいと思うんだ。俺も正直、歌がうまいとは思わないが、それなりに記憶はある。ああそうだ、『モルダウの流れ』ならフルでいける」
「関崎、あのさ、それ、ここでか? それに他のクラスの人もいるしさ。ピアノ練習している人もいるし」
ちらとB組連中の様子を伺った。それぞれ懸命に「翼をください」を合唱し続けているし静内もヒートアップして「ほら、もう一度!」とか叫んでいるのが聞こえる。たぶんこちらでふたりひっそり練習していたとしても邪魔になんてならないような気がする。乙彦は首を振った。
「いやみんな歌っているか弾いているかだろ。それぞれ別々だ。
それでも立村が不審げな顔をしたままなので、
「気になるなら断ってくる」
静内の元に向かった。ちょうどタイミングよく練習が一段落したところらしい。乙彦が近づくのと一緒に名倉もよってきた。やはりひとりは寂しいのだろう。
「何、あんたたちも練習?」
「そうなんだ。指揮と伴奏を急遽合わせることになったんだ。終わったら学食だ」
「了解。うちのクラスもそろそろ終わるけど、もう一回くらい自由曲と課題曲流したいのよね」
見ると男子も女子も少し疲れた顔をしている。静内にしごかれたんだろう。同じ規律委員の東堂もいる。
「悪いんだが、これから伴奏の練習用に俺が歌うことになるんだが、お前らの練習の邪魔にならないかだけ確認したかったんだ」
「歌う?」
静内と一緒に名倉も尋ねた。そんな露骨に驚かなくてもいいだろうに。
「まさか、関崎、あんたが?」
「そうだ。まだ伴奏が合わせられる状態じゃないんだが、できるだけ歌でなれておいたほうがいいと俺は思うんだ。それで合唱ならぬ独唱でどうだろうということなんだ」
「別にいいよ。わざわざ断らなくたって。でも、面白いその発想。ね、名倉」
「関崎はすべての場所をカラオケボックスにしたいかのようだ」
無表情でつぶやく名倉の頭を軽く叩いた後、乙彦は側で様子を伺っているグランドピアノの女子生徒に頭を下げた。
「悪い、うちのクラスのピアノ弾きはまだなれてないんで、一曲だけ練習するからその間、ピアノを休んでもらえると助かるんだが」
こっくりB組担当の伴奏者も無表情で頷いた。静内にも目線を向けて了解の合図を送っていた。
「じゃあ、またあとで」
B組連中の興味津々たる眼差しを無視し、名倉も放置したまま乙彦はアップライトピアノのもとに向かった。様子を伺っている立村に親指立てて合図を送る。
「みな、少し待っててくれるそうだ。すぐやろう。『モルダウ』は弾けるか」
「たぶん」
答えた立村が、少しひきつったように乙彦の背後を見つめている。乙彦も振り返ると、いつのまにかB組の合唱練習メンバープラス伴奏者プラス名倉、そして率いる静内が近づいてくる。どうやら様子を伺いに来たらしい。男子の中から東堂がにやつきながら立村にに向かい手を振っている。そういえば東堂は中学時代立村と同じクラスだったと聞いている。
──これは本番っぽい雰囲気でやれるな。面白い。
どうせ合唱コンクールは人前でやるものだ。できるだけ本番と似たような状態でやれるのが一番いい。立村がまた不安そうに尋ねる。
「関崎いったい何言ったんだ」
「せっかくだったら本番と近い雰囲気の方がいいから、聴いてもらえないかと頼んだんだ」
「ちょっと待てよ、それまだ早いだろ?」。
「大丈夫だ。どうせ練習だ。失敗は早いほうがいい」
「そういう問題じゃないって!」
すっかり慌てている立村を見てB組の男子連中もからかうような視線を向け、
「立村、お前まじピアノ弾けたのかよ。笑えるよなあ。しかも今回は独唱のお付き合いか。すげえなあ、出世したよな」
「へえ、立村ピアノ初公開じゃん。見ものだぞこりゃ」
女子たちの立村に対する冷ややかな眼差しが少し気になる。静内も乙彦に近づき、
「関崎も歌うの好きだよね」
肩を軽く叩いた。立村など視界にないといった雰囲気だ。
「あくまでも練習だ。しくじってもばかにするなよ」
──俺ではなく、立村を、だ。
立村は観念したようにため息を吐いて、その後ゆっくりとピアノの鍵盤を奏で始めた。「モルダウの流れ」のゆっくりした演奏は、まだ先の伸びしろがあるということでよしにしよう。とりあえずは、乙彦もカラオケとして歌うことができる。それで十分だ。
マイクを通さずに歌うのは久々だったが、音響がよいのだろう、風呂場で歌う以上に気持ちよく響き渡った。声がなめらかに流れ出る。
──やっぱりいいなこれ、生演奏をバックというのはカラオケとのりが違う。
立村のあぶなっかしい演奏すらも、自分でどんどんリズムを作って歌えばいいので遠慮なく進んでいける。途中立村がやたらと早く弾いたところがあって息継ぎに難儀したくらいで、あっさり終わった。
一瞬の間。
その後誰ともなく拍手が響き渡った。最初は女子から、そして男子たち、さらに気づかなかったがグランドピアノの近くでたむろっていた上級生らしい女子たちがみな、盛んに手を打っている。そんな派手なことしただろうか。立村と顔を見合わせていると、
「やるなあ、関崎、指揮者なんてもったいない、なんで合唱にまわらなかったの。私だったら絶対そっちに回したのに」
静内がまた乙彦の肩を叩きながら意味ありげに微笑んできた。
「うちのクラスにはよんどころない事情がある。しかたないんだ」
何度となく説明した理由を口にすると、今度は名倉がが手を叩きながら近づいて握手を求めてくる。いつもカラオケボックスで遊んでいる時はそんなことしないというのに、いったい何の風の吹き回しかと突っ込みたくなる。
「いったいどうしたんだお前ら」
「お前歌謡曲よりこういう曲の方が向いてる」
「名倉そうだね、私も同感」
三人顔を見合わせてわけもなく称え合う。要はカラオケボックスで歌う歌謡曲よりも、こういったきちんとした楽曲のほうが評価高いということなのだろう。
一方立村の方を見ると、東堂が何かいろいろと声をかけている様子だった。しょげこんでいる様子の立村に、
「うちのクラスみたいにやる気ありすぎな方が珍しいんだって。他のクラスも似たようなもんだからそんななあ、めげなくたってなあ」
励ましているんだか落ち込ませているんだかわからないことを語りかけている。他の男子連中も同様で、乙彦にはあえて話しかけようとしない。
「東堂、ひとつ聞きたいんだけどさ」
「はいはい」
「もしかして、うちのクラスになら勝てる、と確信したんじゃないのかよ。伴奏もこの程度だし、歌がうまい奴は指揮者だしってことで」
「そんなひがむなよなあ。ま、ある意味事実ではあるけどねえ」
附属上がり同士の気兼ねない会話を聞き流していると、静内が乙彦と名倉にしか聞こえないようにぽつりとつぶやいた。
「関崎、これからだよ。同じ土俵に立てるようにするの、めちゃくちゃ大変だよあんた」