6 独唱(2)
昼休みのわずかな間に名倉と話したことは他に、
「自由研究がやたらと褒められているんだが」
これに尽きた。名倉曰く、
「青大附属に入学してから初めて、教壇に立たされて褒められた」
のだそうだ。
「俺もだ。朝の会に発表があったんだ」
「静内はどうだろう」
「そりゃ褒められるだろう」
本当はその辺りも確認したかったのだがそろそろ時間だ。乙彦と名倉は一足先に図書館を出た。昼休み終了一分前には席についていたい。
「ひとつ気になることがあるんだ」
「なんだ」
階段を降りながら名倉がつぶやいた。
「どうも十月頃に表彰式だかなにかがあるらしい」
「それは聞いてないぞ」
「俺もよくわからないが、とにかく何かにでなければならないことは確からしい。えらい人の集まりかなにか、と聞いている」
「初耳だ。あとでうちのクラス担任に聞いてみる。しかしそうなると静内も詳しいことを知っているということなんだろうなあ」
「たぶんそうだ。あいつに聞いてみればいい」
「放課後、B組にふたりで迎えに行ってみるか」
「そうだな」
まだ乙彦は自由研究の件でお褒めの言葉しか預かっていないがこれからは妬みや嫉妬など面倒なことも降りかかってくる可能性がある。乙彦からしたら相手にためらうことなく話し合いをしに立ち向かえばいいが、静内は女子だしそう簡単には片付かないだろう。そう考えると早めに静内を含めて打ち合わせ、今後の対策を練っておくことが必至だ。
放課後になると藤沖がいつものように教室を飛び出していく。
「藤沖、お前どこに行くんだ」
無駄だとは思うが呼び止めてみる。
「悪い」
言い捨てて鞄を抱えていく藤沖を見送りつつ、改めていつのまにか傍にいた古川に声をかけてみた。
「俺が言えた義理ではないが、藤沖、大丈夫なのか」
「さあね。私も何も言えないよ。ただ、しょうがないってことよ」
──古川にすべて投げている状態か。
静内の言葉を思い出す。古川は苦労してそうな表情を微塵たりとも見せないけれども、どこか無理したように感じられるのかもしれない。このまま倒れないことを祈る。女子たちの群れに混じり、楽しげに合唱パートをまとめていく姿をなんともなしに眺めていた。
自分の机に持たれていると立村がいつのまにか隣りに立っていた。ちらと顔を見た。ちょうどいい、藤沖も他の男子もいない。しゃべりやすいだろう。話しかけた。
「古川はさすがだ。ああやってさりげなくクラスの要となるわけだ」
立村は困ったように口元だけで笑い、小声で答えた。
「あの人はいつもそうだけどさ」
「五分程度きっちり歌って、適当に褒めて、解放する。しかも褒める」
「古川さんは男子の褒め方をたまに勘違いしている時あるけどさ」
「まったくだ」
ご存知下ネタ女王のお言葉だ。思わず頷いた。両手を組んで膝の上の鞄に載せている立村に、ピアノのことを振ってみた。
「ところであれだ。お前、練習しているんだろう?」
立村は軽やかに答えた。組んでいた手を解きひらひらと指を動かした。
「それなりにやってるよ。たぶん、来週中にはテープ用意できるくらいには弾けるようになると思う」
「テープとはなんだ」
「クラスの練習用の伴奏なんだけど。今週中に一通り弾けるようになったら、何本かテープに吹き込んで、あんな風に時間のある時に曲を合わせて歌ってもらうようにしようって計画しているらしいんだ」
「歌を合わせるとはどういうことだ?」
古川が立村のピアノ進捗状況をかなり悲観的に語っていたけれども、それなりに準備は進んでいるようだ。たぶん静内と一緒に耳にしたさみだれの音色は、たまたまだったのだろう。かなり冷静に答えている。
「今はまだ、アカペラで合わせているけれどやはりピアノの伴奏があるなしとではだいぶ違うだろ。まだ俺も指揮者のお前に合わせられるだけ弾けないからもう少し待ってもらいたいところなんだけどさ、でも、歌のほうは出来る限り早く合わせられるようにしたほうがいいよな。今、C組なんて毎日朝と放課後、音楽室を押さえてクラス全員で練習しているし、それにはさすがに負けたくないんだと思う」
「そうか、そこまでみな本気なのか」
立村は軽く首を振りやさしく笑った。
「いや、でもうちのクラスはそういうのが向かないと古川さんわかってるんじゃないかな。あまり早すぎると中だるみしてしまうから、二週間だけ集中してもらう方向で考えているんだと思うよ。それの方が緊張感あるし、俺も関崎もそれなりに準備ができているだろうから安心感もあるしさ」
「そういうことか。確かにそうか」
乙彦も前もって古川から聞いていたからそれほど驚きはない。ただ、やはり早めに立村と練習をしたほうがいいような気もする。指揮者練習がまだ二回程度しか行われていない現状だと、人の心配より自分のことを何とかしなくてはならないんじゃないかとも思う。
それに、藤沖が完全にクラスのことより自分の関係でばたばたしている状態の中だと、男子でもそろそろ誰かが動かないとまずい。男子十一人中、ここで動くのはだれかと考えると自分しか適任者がいないというのが問題だが。
──やはりここは、実力で互いに見せるしかないか。
古川があれだけがんばっているのだから、せっかくの男子指揮者&伴奏コンビ、しっかりパートナーシップを保たねば。
思い切って乙彦は立村の手の甲を強めに叩いた。
握手の代わりだ。
「どうした? かなり本気で叩いただろ?」
「悪い。俺も今、突然思いついたんだが俺とお前もできるだけ早く、指揮者なり伴奏になれたほうがいいということがよくわかた。すなわち」
「何?」
けげんそうな顔をしたまま手の甲をさすっている立村に、乙彦は思いついたことを大急ぎで伝えた。
「立村、できるだけこれから、ふたりでピアノに合わせる練習をしよう。時間は規律委員会とバイトの隙間を縫う形になるが、できるだけ都合はつける。クラス全員がそれぞれの形で準備をしているのなら、俺たちも早めに息を合わせたい。どうにかして一緒に練習したいんだが、どうだろうか」
立村は少し驚いた様子で目を見開いたが、穏やかな表情のまま首を振った。
「ありがとう、たださ、今日、これから補習があるんだ」
忘れていた。理数成績が壊滅している立村のさだめ、これから週一時間の補習を受けねばならないという現実を。詳しいことはあえて聞いていないが青潟大学の学生たちがボランティアで生徒たちに教えるやり方だという。一学期は外部生も毎週二回強制参加させられていて夏休みの補習も特別に行われていたのだが、二学期以降はまだ開かれていない。
「ああそうか、毎週水曜はそうなんだな」
「数学と理科のプリントを解き続けなくてはならないんだ。結構ハードで、それが終わってから音楽室に行こうと思ってる」
やはりピアノを弾きたいのだろう。本当はそれまで残っていてもいいのだが。
「ピアノの練習か」
「そう、たぶん少し遅くなったら人も少しは減っていると思うから、ピアノも空いているんじゃないかなと思うんだ」
ピアノの練習だと邪魔するのはやはりまずいだろう。乙彦は提案を飲み込んだ。その代わり、近いうちになんとしても稽古をすべく、言を取ることにした。
「そうか、俺も一応、肥後先生から呼び出されて指揮棒の振り方を習っているんだがなかなか大変だな。意味があるんだと言うことに初めて気づいた。どちらにせよ、立村とは一度きっちり練習をする必要があると俺は思うんだ」
「そうだね」
短く立村は答えた後、
「そろそろ教室移動しとかないとまずいから、またあとで」
女子たちの歌い声が一部教室内で響き出したのを合図に、かばんをぶら下げ教室を出て行った。
──とりあえず約束はしたということだな。時間を調整しよう。今日がだめでもまた明日にすればいいことだしな。
思い出した。すっからかんに忘れていた。
──まずい、名倉と約束してたのは俺の方だ!
一年B組に乗り込んで静内と自由研究事情の打ち合わせをするはずだった。B組はたぶん合唱コンクールの練習に行ってしまうだろう。その前に捕まえたかったのだが、しまった、しくじった。外部三人組よりもつい立村を優先してしまった。