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3 指揮者練習(4)

 乙彦の知る限り、「モルダウの流れ」という合唱曲は中学時代の教科書にも掲載されているくらいメジャーなものだったはずだ。他のクラスで選んだ可能性もある。だがしかし、まさか、いや可能性としては。

「誰だろうね」

 乙彦が止める間もなく、静内が音楽室の扉に手をかけた。細く開いた。全く音を立てない。覗き込み、乙彦を招いて様子を伺わせた後、すぐに閉めた。

「今日は、やめたほうよさそうかもね」

「もっともだ」

 互い、久々に短い言葉でのやり取りで結論を出した。音楽室奥のアップライトピアノの前には丸い体つきの肥後先生と、ピアノに向かい合う男子生徒のふたりが練習を続けている。肥後先生は弾いている生徒の隣りに腰掛けて、特に何も言わずに見守っているようだった。

「誰だか、わかったよね」

「ああ」

 静内が促す通り、乙彦が最初に予想していた男子であることは確かだった。やはり練習に来ていたのかと思わず二度頷いた。

「やはりがんばってるんだな」

「何が」

「立村がだ」

 しみじみつぶやく。どことなくほっとするところもある。

「この前言っただろ。あいつの家にはピアノがない。だからこうするしかないというわけだ」

「そうなんだ、それはきついね」

 階段を降りた。一階の踊り場で静内は、

「それじゃ、これからどこか別のとこで指揮者練習しようか」

 切り出した。さっぱりした表情でひとつにまとめた髪を押さえた。

「本当は肥後先生に見てもらいたかったけど、たぶんあの調子だといつ終わるかわからないし」

「言いたいことはわかるが、あの状態だとしょうがないだろうな」

「うん、とりあえず外に行こうよ。どこか公園とかで」

「例の公園にでも行くか」


 「例の公園」とは、乙彦の家から徒歩三分、静内の家からも十分程度で到着するという青潟市立郷土資料館前の公園を意味する。塩にぎりを食ったりレジャーシートを敷いてごろごろしたりとか、夏はほとんどあの公園で過ごしたものだった。

「残念ながら名倉がいないな」

「しょうがないよ。あいつも指揮者になればいいのに」

 軽口叩きながら自転車でそのまま公園へと向かった。小学生の子どもたちが元気よく走り回っているものの、さほどうるさくもない。自転車を中に入れて乙彦はベンチに腰掛けた。知り合いは混じっていないようだった。

「それにしても、A組、あのままだと大変だね」

「何がだ?」

 鞄を乙彦との間に差すように置き、静内は笑いかけた。無理しているようにも見える、ひきつり気味の笑いだった。

「失礼かもしれないんだけど、あのピアノ弾いていた人、かなり苦労しそうだよ」

「立村のことを言っているのか?」

 まあ確かに、とは思う。自由曲が決まったのが間もないことを考えるとそれは仕方ないといえば仕方ないことだ。片手練習から始まるのも当然だろう。たどたどしい音色と、肥後先生の静かな佇まいだけで判断してしまうのは危険だとも思うのだが。

「だが、立村は最終判断をするための音楽授業で、『エリーゼのために』を弾いたらしいが。それなりに弾くことができるとは聞いているんだ」

「仕上げた曲がそれなりに、ってことだよね」

 さらりとつぶやくものの、静内は首を振った。

「どのくらい時間をかけて仕上げたのか、その曲だけなのか、考えないとまずくない?」

「考えたんだろうがとりあえずは決まってしまったというわけなんだが」

「どういう考えなんだろうね」

 膝の上で何度か静内はげんこつをつくり叩いた。

「私だったらそんな賭けみたいなことはしないよ。関崎言ってたよね。確かピアノ弾ける生徒がふたりいて、何かの事情で担当できなくなったって。それで」

「いや、立村もやる気があって立候補したとも聞いている」

「それがまずいってことよ。私、思うんだけど、そのふたりのもともと弾ける人から納得行く理由を聞いてるの」

「一応は聞いた。十月の学校祭と同じ時期に、学内演奏会があるらしいんだが、そちらを優先せざるを得ないという理由らしいんだ」

「学内演奏会かあ。なるほどね。でも妙だね。うちのクラスの伴奏担当さんもその演奏会に出るけどちゃんと担当してくれたよ」

「わからん。細かいことは全部古川が担当しているようなんだ」

 ずっと立村のやる気回復が嬉しいあまり、詳しい事情については全く関心を持たずにいた。立村が本気で練習しているというのが伝わるだけで乙彦としては満足なのだが、どうも静内の見方は異なるらしい。いつまでたっても指揮者練習が始まらない。

「古川さんがすべて?」

「ああそうだ。一応、藤沖もそれなりに関わっているようだがあいつも応援団の設立準備でいろいろと忙しい。そうなると身軽な古川が全部仕切る形となる。立村の話も、もともと古川と中学時代から気心知れていたこともあってそんなこんなで決まったんだろう」

「いいのかなあ、そんな安易で」

「静内はよくないと思うのか」

 自分のクラスのことをあまりよく思われてないのは面白くない反面、同じ外部生意識を比べてみたい気もする。静内とだとそのバランスとれた意見を聞き出せて面白い。ちょいちょいと促した。

「思うよ」

 きっぱり答えた静内。唇をきゅっと引き締めた後、

「関崎からA組の話を聞いている限り、ほとんど古川さんひとりに仕切られているような感じがするよね。これ、私も評議だから感じてたんだけど、A組の場合古川さんの発言がものすごく大きくて下手したら一年の総意になっちゃいそうなことがたまにあるのよ。まあご存知のC組が反発すること多くって、結局はまるく収まるんだけど」

「C組は羽飛と轟か」

「そう。古川さんは羽飛くんと仲いいけど轟さんとはにらみ合っているみたいよ」

 ──いや古川は羽飛と。

 外部生ゆえにそのあたりの事情は知らないのかもしれない。

「なんというかね、A組って英語科だし特殊なところがあるのかもしれないけれど、どうも古川さんのやりたい放題にされてしまっているような印象がね。私の思い過ごしかもしれないけど。それでさっきの伴奏の話にもどるけど」

 静内はピアノをぱらぱら弾くように空で指を動かした。

「もし私がA組の評議だったとしたら、何はともあれあのレベルの弾き手で満足はしないと思うんだ。ちょこっと弾いたところを聞いただけで判断するのは失礼だと重々承知しているけど、当日まで間に合うかなってかなり心配なレベルだと思うんだ」

「まだ日も経ってないんだから仕方ないんじゃないのか」

「そういうレベルじゃないって。私ならもう少し、他のふたりを説得する。なぜ辞退せざるを得ないのか、その演奏会がそんなに重要なものなのか。合唱コンクールの伴奏がそんなに負担なのか。いろいろ教えてもらい、その上でクラスのみんなに議論してもらう。別の方法がないかどうか」

「その結果だろう、立村を選択したのは」

 古川も自宅に立村を招いて判断したと話していた。

「でも、裏で決まったことよね? 結果から言っちゃうと」

「まあそうだが、最終的には音楽の授業で」

「だからその音楽の授業だけど、選択した人たちだけだよね?」

 ──確かに。

 書道選択の乙彦は聞いていない。

「まとめると、どう考えてもクラス全員の意思として選んだ伴奏者でない彼を、古川さんの一方的な判断でそのまま推し進めていいの、って私は思う。もう決まったことだし、関崎も応援しているようだしひとさまのクラスに口出ししたくはないけど、少なくとも納得できないまま進むのはどうかと思うよ」

「要するに、立村が下手過ぎて伴奏者として耐えられないということだろ」

 静内のまとめを乙彦はさらに端的に要約し、

「合唱の質を高めるためにはそこまでのこだわりも必要だろうが、俺はひとりの沈んでいた奴が本気で立ち上がろうとしてくれたことを、認めたいんだ。たぶん古川もそのつもりなんじゃないか?」

 不毛な議論を終わりにした。

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