3 指揮者練習(2)
合唱コンクールにかこつけて忘れていたわけではないのだが、夏休みの宿題を中心とした実力テストの準備もしなくてはならない。指揮者の生徒を集めた講習会はそのあと行われる予定だと聞いている。とりあえずはしばらく勉強に専念する。もちろんバイトはそのまま続ける。
「今度こそ!」
静内が図書館で拳を振り上げる。もちろん他の生徒に見られないように。砕けた喋り方をするのは「外部三人組」……今だ名前そのままだが……の時のみだ。
「なんとしても、少しはましな点数取らなくちゃ!」
「静内、俺が聞いている限りでは入学時、かなりの高得点で入学したはずだが」
「最初だけ! こんなふざけたテスト問題を日常から出す学校だなんて思ってないもんね」
名倉もこくこく頷いた。
「確かにそうだ。普段のほうがややこしい」
「なによ名倉なんてなんなの、もうD組ではトップクラスだって噂聞いたんだけど」
「実力だ」
当然のように言い放つ名倉を、乙彦はため息とともにたしなめた。
「冗談言いたいのもわからなくはないが、今の静内に言うのは危険だ、やめとけ」
「それはわかってる」
「なんなのもう、あんたたち私を猛獣扱いしてるくせに!」
「そうふざけている暇あったら勉強だ。俺もそろそろ本気でやらないとまずい」
いつもの図書館最奥の机を分捕り勉強するのが常だった。
ある意味たまり場とも言う。
青大附高の図書館は大まかに分けて二部屋に分かれており、一部屋がカウンターすぐ傍の幅広テーブルが川の字になり並んでいる。本しかない学食カフェテリアのような雰囲気だ。さらに奥に進むと自習室も設置されていて、そこは先着順のみ。通常一年がその部屋を使うことはない。
テーブル部屋についてはおしゃべりしても咎められることがなく、先日の「元評議三羽烏」たちの放言騒動もしかたなく受け入れられるもの。あまりお金を使いたくない外部三人組としては図書館がベストの環境である。
「ところで合唱コンクールだけどどう? 関崎が指揮者だと、これからの練習も一緒になるかもね」
「なるな。実力テストが終わってからは指揮者特訓だろう」
「それで気になるんだけど」
小声で静内が囁いた。
「C組の指揮者が」
「ああ、知ってる。難波のことだろう。気にするな」
えっと息を呑む静内。どっしりと構えている名倉。
「うちのクラスの誰かが、俺たちにはちょっかい出さないように言い含めてくれると聞いている」
「そういうんじゃないって。ちらっと聞いた話なんだけどね」
さらに静内は辺りの反応を伺いながら続けた。
「アニメ主題歌かエンディングか忘れたけど、それを自由曲にするんだって!」
「そうなのか。知らなかった。ちなみに名倉、お前のクラスは」
「『いざ立て戦人よ』だ」
これぞ合唱、と言わんばかりの選択肢だが、アニメ主題歌というのは頭になかった。
「もう私もびっくりしたよ。東堂くんがC組の友だちらしい人と話していたのたまたま聞いてもう、なんなのって」
「俺はあまりアニメに詳しくないが、それでも普通は考えない発想だとは思う」
少なくとも中学の合唱コンクールで選択するということはまずないだろう。やはりそこが青大附属だからなのか、そう言い切ってしまっていいのか、正直わからない。たださすが「元評議三羽烏」の揃ったクラスではあると思う。
「俺が知る限り、C組には中学時代に委員会活動を中心に活躍した生徒が集中してると聞いている。そのあたりも影響あるんじゃないのか」
「そうだね。毎日、練習できない代わりに指揮者の男子が発声練習を休み時間に義務付けているって話をちらっと聞いてね。なんなのこの情熱って仰天したのよ」
「静内、お前のクラスはどうなんだ?」
気になるB組についても尋ねる。静内はノートの上に両手をぱたんと載せた。
「やることはやってる。まあ発声練習まではしてないけどね。男子と女子のパートをそれなりに分けて、パート別練習してほしいんだけど、実力テストが終わらないとなかなかね。あまりやる気のない人とか、結構いるから面倒くさい」
「うちは古川がとにかく細かく割り振りしていて全部片付けているぞ。たぶんこの調子だとテスト後にすぐ練習だろう。ただ、伴奏の練習が追いついていないみたいだが」
「伴奏かあ」
静内がふっと空を見つめるようにして尋ねてきた。
「伴奏って、確か男子が担当するんだよね」
「そうだ。立村知ってるか? 青大附中では元評議委員長だったというからかなり有名人だが」
名倉は首を振る。結構驚きだ。立村を知らないとは。
「知らない。名前もあまり聞いたことがない」
静内は少し考えて、
「この前、視聴覚教室で出入りしていた人でしょ。関崎言ってたじゃない。前期評議委員長だったけどいろいろ問題があって引きずり下ろされたって人という噂だけは聞いたことあるよ。英語だけは学年トップで、この前初めて落ちたとかそういうことも」
──いやあれは、いわゆる欠席による不戦負なんだが。
立村に対する情報の偏りが哀れすぎる。少し矯正しておく必要がある。友だちとしてこれは義務だろう。乙彦は合唱コンクールに絡めて立村の弁護に努めた。
「俺は水鳥中学で生徒会副会長をやっていてそのつながりでしょっちゅう青大附属に顔を出していた、ってことはかなり前に話したよな」
「知ってる」
相変わらず静内は短く答える。
「その時一番連絡を取り合っていたのが立村で、それからの付き合いだからかなり長い。人柄もなんとなくわかるが、結構いい奴だ。そんなこんなでA組でも顔を合わせているんだが、今回の合唱コンクールにおいていろいろ面倒な事情があってまともにピアノの弾ける奴が誰ひとり伴奏できないという事態に陥った」
「関崎全然その話、してないよ。続けて」
てっきりふたりにはぺらぺらしゃべったつもりだったのだが抜けていたのが意外だ。
「そこで手を挙げたのが立村だ。俺も知らなかったがあいつはピアノが弾けたらしい。ただ先生について習っているというよりも親の手ほどき程度なので今まで黙っていたようだが。普通だったら知らんぷりで通すところを、逆風の中引き受けるという覚悟を俺は買いたい。少なくとも俺が同じ立場だったら全力で逃げる。たとえリコーダーでも」
「ピアノ弾ける人なんだ。でも伴奏者の人見つかってよかったよ。指揮者ならまだ替えが効くけどピアノはね」
そのあと、いきなり静内は何かを思い出したかのようにじっと乙彦を見た。また小声で周囲を見渡しながら、
「女子たちから聞いた噂だから聞き流していたんだけど、確か彼は、うちのクラスの」
言い終わる前に静内が確認したがっている内容は理解した。もう周知の事実だし立村も隠していない。事実だけ伝えておいてもいいだろう。
「清坂と付き合っていたことは事実だが今は別れた、と本人から聞いている。立村本人だが」
呆然としたまま静内はつぶやき、首を振った。
「信じられない。うちのクラスでもよくあのふたり話してるとこ見かけるけど、あの態度って別れた彼氏彼女のするものじゃないよ」
「静内、それでは通常どういう態度を取るべきなんだ?」
名倉の棒読みな問いに、静内は答えず両腕で自分の身体をかきいだき、ぶるると震える真似をした。