2 伴奏者決定(4)
指揮者、これは絶対にありえない。
「藤沖、お前いったい何考えてる? 俺は芸術科目書道だってことわかってるだろが!」
「いや、関崎ならできる。俺が断言する」
「何馬鹿なこと言ってるんだ!」
しばしの放心状態から立ち直り乙彦が、ほくそ笑んでいる藤沖の胸ぐらもといネクタイをひっつかみ抗議している間に、もうひとりの主役が教室を抜け出そうとしている。
後ろの扉からC組の難波が顔を出し、立村を確認してから潜り込んできて腕をひっつかむ。藤沖とやり取りしている乙彦をちらとみやって、
「悪いがこいつ借りてくからな。一応肥後先生に呼び出し食らってるんだ。理由はだいたいわかるだろ」
嫌味ったらしく言い放ちやがった。立村も少し驚いている様子だったが、難波に逆らおうとはしない。引きずられるというよりも素直に立ち上がり扉に歩き始めた。ちらりと乙彦と古川、その他の生徒たちに小さく礼をする。申し訳ないというところはなんとなく伝わってくる。古川はすぐに感づいたのか、難波にわざとらしく肩をすくめてみせ、
「ああ、ホームズ様どうもどうも。悪いわねえ、隣りのライバルだってのに出来の悪い弟を面倒見てくれるなんてありがたいことじゃないの、ほら立村、あんたはさっさと行きな!」
つかつか立村に近づき、思い切り背中を押しやり追い出した。
その間にも藤沖の乙彦絶賛演説は再開されている。もう教室の中はカオス状態と言ってよい。乙彦の逃げも打てそうにない。
「お前らはまだ知らないだろう。関崎、こいつの密かなる才能を」
両手をぽんぽん打って、藤沖はクラス全員を黙らせようとした。はっきり言って無駄だ。いったん火のついた連中を静かになんてできるわけがない。
「俺も、実はまだ噂でしか聞いていないのが残念なんだが、こいつの美声は知る人ぞ知る見事なものなのだそうだ。とある情報筋から聞き及んだわけだが」
「それは違う、俺は単純にカラオケが好きなだけだ」
かえって油に火を注いでしまった。そういえばこのクラスで乙彦のカラオケ好きは意外と知る人が少ないはずだった。夏休みしょっちゅう連れ込んでいた静内、名倉ならともかくも。あとは古川と立村くらいだろう。立村がぺらぺらしゃべるとは思えないので、藤沖が乙彦のカラオケマニアっぷりを知ったとすれば古川経由としか考えられない。
「関崎、あんたさ、自分を音痴だと感違いして十五年か十六年経ってると思うけどさ、あんたにマイク握らせたら最後だよ。もう誰も後で歌えなくなるんだよ。私も気になってさ、この前評議の静内さんに聞いたけど」
「あいつになんで聞いた?」
思わず気色ばむ。また余計なちょっかいだそうとしたのか。古川はにやつきながら首を振った。
「評議委員会とっくに始まってるから顔合わせる機会あるんだからあせりなさんな。静内さんもあまり詳しいことは言わなかったけれども、少なくともあんたを下手とは思ってないみたいだよ。うーんとね、どっちか言うと、クラシック系が向いてるんじゃないかと」
「クラシックってどういうことだ」
あの静内も、評議というだけでしつこく聞かれていらついて適当に答えただけなんじゃないだろうか。あいつもロックをがなっていたのだから。
「ああなるほどねって思ったよ。静内さんよく聞いてる。あんた、いわゆるアニメソングとか歌謡曲歌う玉じゃないんだよ。どっちかいうとくそまじめな文部省唱歌的乗りがぴったりなの。となるとさ、やっぱ、合唱曲の折り目正しさがぴったりくるじゃん」
「古川、お前が褒めてくれるのはありがたいが、そうなると本来俺のいる場所は合唱だろう。なぜ、指揮者になる必要があるんだ?」
いつのまにか教室のおしゃべりが静まってきている。古川が口を挟むとなぜかみな、聴き入るのはなんでだろう。興味津々といったふうに食らいついてくる。その間をついて、今度は藤沖が演説を再開した。
「もちろん本来であれば関崎はバスパートで見事な響きを披露してもらいたい。俺も最初はそう思っていた。だがしかしだ。合唱はひとりで歌うものではない。たとえひとりが見事な歌声を響かせたとしても、残りの奴らが音程狂っていたら最悪な展開となる。しかも、繰り返すが伴奏があの」
「立村だよ、もう決まったよ。だからそのことは置いときな」
古川の制止も無視して藤沖は陶酔状態で語り続ける。
「期待ができないレベルの演奏ともなれば、ここでどうやって俺たちは優勝を狙うべきか。コンサートである以上、俺たち一年A組はトップを狙ってしかるべし。しかし俺のような、こういってはなんだが聞くに耐えない音痴でかつそのために美術を選択している我が身としては、自信をもって指揮者を背負う自信がない。いや、伴奏に引きずられてしまいせっかくのハーモニーを台無しにしてしまうであろう。断言はできる」
小声で誰かの声が聞こえた。女子だった。
「確かに藤沖くんはね」
怒ると思いきや、藤沖は大きく頷いた。
「その通り。だからだ。今だからこそ、俺は関崎にクラスの命運を託したい」
「そんな大げさだろう」
「いや、大げさではない。思えばまだA組で、俺はクラス一体となった感覚をまだ味わっていない。男子連中だけならともかくも、残念ながら女子とは遠いままだ。普通に話をするだけで、まだ同じクラスで三年間を共にするであろう盟友という感覚がつかめてない。もちろん一部の男子はそれぞれいろいろあるだろうが」
──よくわからないがそういうのがあるんだろう。
乙彦が心の中でつぶやくのを藤沖は全く気づかずに、
「そういうこともあって俺としては、この合唱コンクールを男女しっかり結びつくための大きなきっかけにしたいと常々考えていた。同時に単なる仲間内のお遊びではなく、確固たる友情を形作るためのものとしてだ。指揮者とは、そのシンボルとなるべき人間だ」
「シンボル?」
乙彦が問い返す前に、予想通り古川がまぜっかえした。
「シンボル? 男のシンボルの大きさなんか比べるのはやめなよ」
「古川黙れ。とにかくだ、俺は今、このクラスの象徴と言える奴をなんとしても、A組の指揮者として立たせたい。それが関崎、お前だ!」
藤沖を黙らせるよい方法はないだろうか。
いやなによりも、この流れだとどうしても乙彦が指揮者を引き受けねばならないような雰囲気が漂い始めている。特に藤沖演説の後半「このクラスの象徴」といったところでなぜ男女数人が頷いてしまうのだろう。全くもって、謎過ぎる。しかも、乙彦のどこがシンボルになるのかが全くわからない。ただ単に、英語科の外部入学者で、妙に先生たちに気に入られ、クラスでも風変わりな奴としておもしろがられているだけに過ぎないのにだ。
「藤沖、なるほどね。合唱コンクールをそういう目で見てるってことか。なんとなく理解できたよ」
理解する必要ないのに、いつのまにか古川が共感してしまった。もう逃げ出せそうにない。
「あんた今回の合唱コンクールについては全く興味ないんじゃないのとか思ってたけど、あんたなりにクラスをまとめるきっかけにしたいと考えてはいたんだね。そういう視点からすると藤沖よりも、関崎が指揮の上手下手にかかわらず代表になるのは悪くないかもしれない。でもそうなると関崎どうする? これ、責任重大だよ」
藤沖と古川が話している間、乙彦はすでに覚悟を決めていた。
自分が「一年A組のシンボル」かどうかは別として目立っていることは認めざるを得ない。だが、この位置はもしかしたらとてつもなく、乙彦の目指す方向に近いかもしれない。
──指揮者が藤沖で伴奏が立村、これだと多分曲の打ち合わせなどもそれほどうまくいくとも思えない。
夏休み前の面倒な一件が今だ影を落としている以上、対等に語り合うことは難しいだろう。できればこの三年間でふたりの間の余計な溝も埋めてもらいたいのだが、今すぐにというのが早急すぎるというくらい乙彦もわかる。何よりも優先順位としては、乙彦が立村をクラスにしっかりなじませて、その上で少しずつクラスを整えていくことが必要だろう。まだ評議委員に任命される……たぶん……には間があるにせよ、だ。
──俺が指揮者になれば、立村と打ち合わせが増える。俺がうまくあいつをクラスに引きずり込んでいけば、少しは奴の居場所も広がるはずだ。それに立村の性格上伴奏を手抜きする奴とは思えない。互いに上手ではないかもしれないが、努力すれば報われる価値感をあいつも共有してると思う。それを考えればやはり。
乙彦は改めて藤沖に向き直った。右手を出した。
「藤沖、お前の気持ち受け取った。しっかりと、結果を出す。やってみる」
「関崎、そうか、引き受けてくれるか!」
両手で激しく握手する藤沖と、クラス内のなんとなくの拍手で、とりあえず最低限の合唱コンクール準備は整った。さてこれから練習だ。