2 伴奏者決定(3)
青立狩 高校一年・二学期 2 伴奏者決定(3)
乙彦の芸術選択科目は書道だった。青大附高の場合芸術科目は音楽・美術・書道の三科目から選ぶことができ、入学の段階で希望を提出することになっている。お世辞にも音楽の素養などなく、かといって美術に至っては雅弘から、
「おとひっちゃんはものすごく現代芸術的な絵を描くね」
と、えらく気を使った発言をされてしまったこともあり却下、結果小学校以来ご無沙汰の書道キットを磨き直して持ち込むはめとなった次第だ。
もっとも、書道と言ってもほとんど最初は彫刻の授業に近い。「篆刻」と呼ばれるオリジナルの印を彫る作業だが、これは結構面白い。書道選択して大正解だ。
とはいえ、この学校に入学してからカラオケの奥深い魅力にはまり家族団欒のひと時をカラオケBOXで過ごすようになったり、友だちから歌声を褒められたりということも多いので、もしかしたら音楽の授業を取るべきだったのではと迷うこともある。
どちらにせよ、三時間目に行われたという音楽の授業で立村がどのようなピアノの腕前を披露したのか確認することはできなかった。男子で四人の音楽選択者。男子十一人いる中では結構な割合なのだが噂でしか入ってこない。
古川こずえが音楽選択だったので、捕まえて聞いてみることにする。
「伴奏の件は、結局立村で決まったのか」
昼休みに呼び止めて確認してみると、待ってましたとばかりに古川は、
「決定。文句なし。まあ、ピアノの腕がどうのこうのってことになると好みだからね。あいつも『エリーゼのために』をさらっと弾いたけど」
「『エリーゼのために』だと難しいんだろうな」
「まあね。立村の場合、自宅にピアノがないし稽古を継続的に行ってるわけじゃないからね。どうしてもうちのクラスの宇津木野さんや疋田さんと比べるとかわいそうなとこあるよ。でも、まあいいじゃん! 弾けないことはなさそうだし、肥後先生も納得してたし」
かなりあぶなっかしい言い方が気になる。乙彦が口ごもるのを見てとって、
「関崎も立村がいきなりかくし芸的にピアノの話持ち出したからびびってるんじゃないの。同じ附属上がりの私たちも正直最初聞いたときは驚いたよ。けど、立村の性格上わからなくもないんだよね。中学時代は結構女子もピアノ上手な子がクラスにいたし、立村もわしがわしがと売り込むタイプじゃない。黙っていれば気づかれなかったよ。ただ今回は少し特殊な事情が絡んでいるからね」
「それ、ずっと気になっていたんだが、うちのクラスの場合宇津木野がピアノの女神で疋田が音大を目指しているということまで聞いている」
「随分情報通じゃん。そこまでわかれば上等よ。つまり、そこまで弾けちゃうふたりがどうしても今回、担当できない深入った理由があるってことなのよ」
時間も差し迫っていたのでそれ以上のことは聞けなかった。どちらにせよ放課後にいったん仕切り直しで合唱コンクールのまとめをするという。それまで待つことにした。
約束通り古川は帰りのホームルームが終わるやいなや、すぐに教室内の全員へ呼びかけた。藤沖が抜け出そうとするのを目ざとく見つけ、
「藤沖もさすがに今日はいなさいよ。それと関崎、あんた、合唱コンクール経験あるでしょが」
すぐに釘を差した。顔をしかめつつも藤沖は素直に従った。乙彦も同様に、
「もちろんだ」
当然のごとく返答した。
「問答無用まあいっか。さてと。今日はさ、合唱コンクールの大まかな練習予定を発表したいんだけど、みんなよい? 三時間目に音楽出た人なら分かってると思うけど、とりあえずうちのクラスの伴奏は立村ってことで話が決まってるんだけど、それでいい?」
ほぼ全員が揃っている教室内で古川は見渡しながら続けた。
「夏休み中、私と直接話をした人たちなら分かってると思うけど、宇津木野さんと疋田さんが今回は十月の学内ピアノ演奏会に集中してもらわないとまずいってことで残念ながら伴奏辞退になっちゃったわけ。うわーん、もったいなーいとか言いたいけどしょうがないよ。十月はみんなで応援に行くからね」
かなり重たい話のはずなのだが、古川の台詞からなるものは実にあっさりしている。要するに宇津木野と疋田の両名は、十月に行われる予定の学内ピアノ演奏会への出演が決まっていてその練習を優先するため、合唱コンクールの伴奏を辞退したということらしい。この辺は全くわからないのだが、学校祭のイベント一環として行われるもののようだ。
古川の言葉を受けて、当の本人ふたりが立ち上がった。まずは背高ノッポでかつロングヘアーの眩しい宇津木野、ピアノの女神さまから直々のお詫びである。
「ごめんなさい」
おずおずと、引け目を感じている様子で言葉に詰まっている。すぐにもうひとり、疋田が古川とクラス全員に向かって、
「今回は、私たちのわがままでみんなに迷惑かけちゃって、ごめんなさい。いつかこの分、ちゃんとお返しするからね。古川さんも、ごめん。あ、それと」
疋田は固まっている宇津木野の背中を叩くようにして促し、静かに腰掛けているもうひとりの主役、立村に向き直った。頭を下げた。
「立村くん、ものすごい負担かけてしまってごめんなさい。本当に、助かりました。ありがとう」
慌てて立村も立ち上がる。まさかそんなことしなくてもといった様子だ。もっとも乙彦からすると、女子ふたりから深々と頭を下げられてもいいことを確かにしているとは思う。
「いや、こういう時しか手伝えないから、あの、俺もほら、弾いた感じがあの程度だから、かえって申し訳ないんだけど」
しどろもどろになる立村に、今度は宇津木野が目を伏せて頭を下げた。
「ごめんなさい」
いろいろと面倒な事情というのはこのあたりなのだろう。古川が調整に走り回るのも当然のことではあるが、それにしてもまさか立村で決まるということは誰の目にも予想外であったらしい。女子たちを中心に戸惑いが感じられる。具体的な内容は別としてもささやきあっているようすがいかにも、という感じだ。
「それでなんだけど、問題は合唱よね。ご存知の通りうちのクラスは人数が少ないじゃん? パートを分けるだけでも結構大仕事よね。まあそのあたりは、吹奏楽のみなさまにお手伝いいただきたいんだけどどう?」
「コンクールの合間になるけどそれでいいなら了解」
吹奏楽部員は全員声を揃えて受けた。英語科A組内の吹奏楽部員は男女含めて結構な割合だ。
「さっすが頼れる! 私も音痴じゃあないとは思うんだけどこのあたりはやっぱプロに任せたいねえ」
調子よく持ち上げた後、古川はどんどん話を進めていった。
「それと、肝心要の指揮者。今までのパターンで行くとなると男子評議委員の指定席ってとこなんだけど、藤沖、あんた文句ある? あんたがいないとバスパートがきつくなるってのはあるんだけどさ、受けてくれるよね」
「俺がか」
「そうだよ、大抵他のクラスもそうじゃん!」
これも予定通りなのだろう。今朝、吹奏楽二人組が息を切らせて話していた内容で、立村が中学の合唱コンクールにおいて指揮を担当したという驚きのニュースが混じっていた。立村がピアノを担当する以上に衝撃的な話だと乙彦は思う。もっとも立村は諸事情で説明していないだけでピアノをたしなんでいたわけだし、音感がないわけではない。問題なくこなしたのだろう。それなら伴奏よりも指揮者に回したほうがいいのにと思わなくもないのだが事情が事情だ仕方がない。
藤沖はどっしりと腰掛けたまま腕を組んでいた。やがて重々しく口を開いた。
「古川、異議ありだ。俺は指揮者向きではない」
──え、なぜだ?
思わず乙彦も反射的に問いかけていた。評議の藤沖にしてはありえない。
「どうしたんだ、お前らしくない」
乙彦だけではない、他の女子たちも一瞬凍りついたように静まった後、矢継ぎ早に
「えー、ちょっとちょっと、話が違うよ。藤沖くんがやってくれるんだったらまあいっかって感じで女子たちも納得してたんだけど」
「そうそう、中二の時やった合唱コンクールも大抵評議がやったじゃん」
質問を浴びせかけてきた。当然だろう。ちなみに藤沖も芸術科目は書道だがそれが関係しているなんてことあるだろうか。
藤沖はしばらく自分に対する鋭い訴えに耳を傾けていた。即、言い返すことは控えていた。やがておもむろに口を切った。
「男女関係なく聞いてくれないか。俺の合唱コンクールにおける考え方を、今ここで伝えたいんだ。いいか、古川」
「わかったわかった、じゃあ、あんたが大将ってことで藤沖、合唱コンクールについて語りなさいよ。その代わり納得いく理由がなければあんたが指揮者辞退なんていう非常識なこと受け入れないからね」
古川の了解も得て藤沖は立ち上がり額の汗を拭った。クラス全員の前に立ち、指揮者を断る理由を滔々と語り出した。
「合唱コンクールとは、クラスの団結を確固たるものにするために行われる学内イベントだということくらいは、ここにいる全員理解しているだろう。俺も最初は楽しみにしていた。お世辞にも美声を持つわけではないがな、ひとつのことに集中して素晴らしいハーモニーを奏でる感動はぜひ味わいたかった。だがうちの学校は意外と合唱に対するこだわりを持っていない。学祭が控えているせいといえばそれまでだが、よりによって伴奏者に負担をかけるようなピアノ演奏会を十月に行うなどといったスケジュールからしても明白だ。また、諸先輩方からも聞いたことなんだが、音楽担当の肥後先生が合唱コンクールというものに対して批判的だというのがひとつの理由とも聞いているんだ」
──合唱コンクールに批判的な先生がいる? 音楽担当の教師がか。
てっきり学校カリキュラムの一環として選択の余地なく組み込まれていると思っていたのだが青大附属では取り捨て選択が可能なのだろうか。そちらの方が乙彦には驚きだ。
「理由は今のところ不明だが、そのこともあり来年以降は合唱コンクール自体がなくなる可能性もゼロではない。いや、かなりの可能性でそうなるだろう。となると青大附高最後の合唱コンクールである以上、俺たちはこの貴重なチャンスを生かすため全力を尽くさなくてはならないことになる。失敗する要因を出来るだけ減らしていきたい。だがたぶん大丈夫だろうとたかをくくっていた。なにせ過去の伴奏者がふたりもいるクラスだからな。しかも半端な腕前ではないという話を、噂で聞いた」
「藤沖、やめなよ」
古川が止めようとするが藤沖は一切聞いておらず、いきなり乙彦を見つめた。何事かと思わず身構える。同時に藤沖がつかつか近づいてきて乙彦の腕を取った。
「おい、いきなりなんだ、おい」
「いいから来い」
小声で周囲には聞こえないよう囁くと、藤沖は自分の隣に乙彦を立たせた。一緒に見渡すクラスメートたちの表情はみな驚きしかない。もちろん立村も怪訝な顔をしているのが見て取れる。
「合唱にとって伴奏は非常に重要だ。要といってもいい。それが今回は、やむをえない事情とはいえほとんどピアノに触れたことのない立村に任せられたということになる。はっきり言おう、それは緊急事態だ」
言い切った後に立村をじっと見つめた。明らかに誰への牽制かがわかるようにだった。藤沖はそのまま立村に語りかけている。
「お前が自分から手を挙げたというのは俺も驚いたが事情が事情だ。頼るしかない。だが、最初で最後になるであろう合唱コンクールで全力を尽くさねばならない中、音楽の耳を持たない俺が指揮者として仕切るべきではない。これは評議だから指揮者、といった短絡的な発想ではない。音楽の流れとハーモニーをつかめる誰かでなくてはならない、そしてここにいるこいつが」
次に今度は乙彦の背中を前にどんと押し出した。
「音楽的感性、およびクラスの要としてまとめる最強の指揮者になる。俺が保障する」
誰にも文句を言わせたくない、藤沖の迫力にクラス全員が飲まれていた。何かを言い返すべきだとは乙彦も思うのだが即時に言葉が出てこない。情けない。