29 二学期終業式(3)
「宇津木野さんのことだよ」
しばらく硬直していたが、立村が助け舟を出してくれた。
「疋田さんが、イタリアへいく宇津木野さんに、彼女なりのプレゼントを用意したくて、今日関崎に協力してもらうというわけなんだ」
「俺が、何を協力するんだ?」
今ひとつ事情が把握できず乙彦も何度かふたりの顔を見直した。乙彦の驚きもすでに計算済みといった表情でふたりは穏やかに微笑んでいた。
「簡単なことだよ、関崎にとっては。そうだろう、疋田さん」
疋田も立村からバトンを受け取りまたこくこく頷いた。
「そうなの。関崎くん、いきなり呼び出してごめんね。私も本当はもっと早く相談したほうがいいなって思っていたんだけど、あまり早いと今度はこずえちゃんが張り切っちゃってみんなで合唱とか言い出しちゃうんじゃないかって思って」
「いやそれのほうが餞別としては自然なんじゃないか?」
こちらからそれを言おうとして先手を取られたようなもの。ばつが悪そうに疋田が俯いた。また立村がバトンを受け取る格好となる。
「合唱も悪くないけど、でもさ、音楽的にはどう思う? 客観的に考えてさ」
「客観的ってなんだそれは」
「言い方変えると大げさかもしれないけど、芸術として、どうかなって」
「ますますわけがわからないが」
ふたりの言いたいことがまだ掴みかねた。実際、昨日の今日でなければクラス全員で校歌を合唱でもして宇津木野への餞別というのも悪くないんじゃないかという気がする。A組の連中だって宇津木野のことをそれなりに思い遣っていただろうし、あの合唱コンクールから一度も顔を合わせていない相手がいつのまにか風のように姿を消すことに寂しさを感じている奴だっているだろう。本当は無理してでも時間を作って宇津木野が学校に来てくれれば丸く収まるような気もするが。
「これ、宇津木野さんのことを悪く言うわけじゃないんだけどさ」
立村は乙彦の隣りへ席を移動した。
「完璧なハーモニーを求める人にとって、不調和な音楽を聴かされるのって辛いんじゃないかな。もちろん、みんなの思いやりは感じるだろうし感謝もするかもしれないけれどもひとつの音楽として、どう感じるかとなるとやはり違うものがあると思うんだ。わかるかな、この言い方」
「まどろっこしいがつまりあれか。宇津木野はただがなっただけの合唱だと心が動かないというわけか」
かなりばかにした言い草にも聞こえるが、合唱コンクール後の病院待合室で古川と語った言葉を重ねればなんとなくたどり着く答えだった。今度は疋田が顔を挙げた。
「立村くんが代わりに話してくれたようなものだけど、そうなの。あつ子ちゃんは音にものすごく拘りがあるの。私よりも、たぶん誰よりもはるかに。だからみんながもし、合唱のプレゼントをしてくれても申し訳なくなって、きっと辛くなっちゃうと思うの。私も少しはその気持ちが分かるし、かえってうちのクラスのみんなを傷つけちゃうよりは私からあつ子ちゃんに、絶対よろこんでもらえるプレゼントをしたいの」
「んで、それがなぜ、俺の出番になる?」
「関崎くんの歌声を、あつ子ちゃんはとっても気に入ってたから」
ふっと疋田が厳しい顔を見せた。
「変な意味じゃないよ、関崎。お前の歌が宇津木野さんの音楽感性にぴたりとはまってたってことらしいんだ、そうだろう、疋田さん」
疋田は立村に感謝の眼差しを投げ、次いで乙彦にも、
「関崎くん、お願い。今回だけでいいの。あつ子ちゃんのために一度だけ、『モルダウの流れ』を歌ってほしいの。私も関崎くんの歌う声の響きが素敵だと思ってる。あつ子ちゃんも一度、関崎くんと音楽室であわせたことあったでしょう。あの時本当に伴奏していて楽しかったって目を輝かせてたんだもの」
「別に俺はカラオケでしか歌っていないんだが」
「そういう問題じゃないだろ。関崎。いいかげん年貢の納め時だ。疋田さん。いつまで話をひっぱってても埒明かないからさっさと弾いて終わらせてしまおうか。勢いで歌わせて、必要であればもう一回くらい繰り返してそれでよしとしようよ」
かなり強引な立村の締めを食らい、疋田も、
「そうね。まずは弾くね。関崎くん。リハーサルやりましょ」
つられるようにいそいそとグランドピアノの前に座った。楽譜はない。
「おい、伴奏の楽譜はないのか」
「大丈夫、暗譜してるから。それに私も関崎くんと『モルダウの流れ』合わせるのものすごく楽しみにしていたの。ね、始めましょう!」
明るく響く声で疋田が誘い、立村はテーブルに録音用ラジカセの準備を始めていた。わざわざ単一電池を二本用意している。電源からコンセントで持ってくればいいのにとも思ったが、
「いやいいんだ。どちらかというと電池だけで録音したほうが音がよくなるんだ」
本当なんだかどうなのかわからないことを立村は答えた。どうやらすべてにおいて最高級を求める宇津木野へのこだわりらしい。
乙彦が返事する前に「モルダウの流れ」を奏で始めた疋田。それを追うように立村が右手を挙げて乙彦を促す。心地よいメロディ、宇津木野と合わせた時とは違う柔らかな音色だった。もちろん立村とは……比較にならないというのはあえて口にしない。武士の情けだ。乙彦は大きく息を吸い込んだ。唇にはまだ三ヶ月前に覚えたメロディが残っていた。
「ありがとう、関崎くん。少し早いテンポで弾いたんだけど次は本番。ゆっくりふくらませるように弾くから、合わせてね」
満足げに手をたたきつつ、疋田がにこやかに指示を出す。お気に召していただけたようだ。立村も様子を見守りつつ、カセットテープを改めてラジカセに納めていた。その間乙彦は窓に駆け寄り、すべてを開け放った。外からひやりとする風が吹きかかるがそれほど強くはない。呼吸しやすくなった。ピアノのそばからふたりが訝っている。
「悪い、歌う間だけ窓を開けさせてもらいたい」
「いいけど?」
「なんだか喉が詰まるような感じがするんだ」
乙彦は二人を前に片手で窓を指した。
「お前たちが宇津木野に最高の音楽をプレゼントしたいというのなら、俺も出来る限りベストコンディションで捧げたい気持ちはある。あくまでも俺のカラオケレベルの喉で、ということだが」
立村が近づいてきた。そっと横からのぞきこむようにして、
「ありがとう。きっと伝わる」
小声でささやき、再度疋田さんに呼びかけた。
「始めようか。一回で決めよう」
「もちろんそのつもりよ。関崎くん、よろしくね」
「こちらこそ、頼んだ」
三者それぞれ息を整え、先に立村が録音ボタンを押した。同時に指揮者のごとく両手を上げてピアノ側に手を下ろした。同時に流れ始めた音色に合わせ次に乙彦と目と目を合わせた。手を見つめる必要はなかった。タイミング外さず乙彦は冬の風吹き抜ける音楽室の外へ向かい、自分が一番心地よく感じる声をそのまま乗せた。リハーサルで歌った時よりもはるか遠くへ声が届いているようだった。
かちりと立村が停止ボタンを押した時、ふと扉の向こうからかすかな拍手の音が聞こえた。音楽室には乙彦たち三人しかいないはずなのに、なぜか。
「誰かに聞かれてたのかな」
「どうしよう。外に聞こえてたかも」
「別に悪いことしているわけではないが迷惑かけていたら謝る必要あるな」
気のせいかもしれない。一回で疋田のOKも出て、三人それぞれ握手を交わし労い合った。余計な感想や出来不出来の評なども一切なく、ただ全力尽くした後の達成感らしきものが身体に満ち溢れていた。取り急ぎ窓を閉め鍵をかける。疋田がグランドピアノのふたを閉じ立村がラジカセからカセットを取り出し片付ける。感想を交わすよりもお互いの表情だけ見ていればそれが納得行く出来かどうかは伝わってくる。宇津木野とあわせた時よりも軽い音に聞こえたけれども二回繰り返せばそれが疋田の個性とつながってくる。
「今回は練習する暇がなかったが、また別の機会にでもこういう話があればぜひ声をかけてくれないか」
とりあえずは礼を伝えた。十分程度で終わると思っていたら三十分も経ってしまっている。もう静内と名倉もとっくの昔にしびれ切らして帰ってしまっているだろう。あとで何かおごろう。待っていたらいたで謝らねばならない。乙彦は立村と疋田に改めて感謝の意を伝え、かばんをぶら下げ扉を開いた。と同時にさっき響いたものと同じ拍手が、次はその倍のふくらみを持って廊下いっぱいに響き渡った。
静内と名倉がふたり、コートを着たまま仲良く待っていた。
「関崎、おつかれ。さあ行こ!」
静内が親指をぐいと立てて乙彦の目の前に突きつけた。
「続きはいつものあの場所だな」
名倉もにこりともせず、関崎の肩をぐいと掴んだ。
「お前ら、玄関に居たんじゃ」
「関崎が音楽室に呼び出されたってことは、歌わないわけがないと静内が言い張るから着いてきた。それだけだ」
そのまま名倉は乙彦をぐいと前へと押し出した。自然と静内と隣り合う格好となった。思わず横を向くと静内はいたずらっぽく笑みを浮かべ、
「さあさ待った待った、これから思いっきり歌うぞー! やなこと全部ぶちまけちゃうぞー! とことん付き合いなさいよ、関崎!」
肘でぐいと突いた。