2 伴奏者決定(2)
名倉から借りた本……「世界の名医」なる未知の世界……を週番終了後急いで返しに行き、一年D組を出た時待ち受けていた女子が約一名いた。
「関崎、おっはよ!」
「ああ、おはよう」
生腕を引っ張られつんのめりそうになる。急いで教室に戻らないとそろそろ麻生先生が来る。規律委員と評議委員が遅刻するというのはみっともない。
「急いでるんだが」
「こっちも急いで話すよ」
古川こずえは足早に一年A組の教室へと乙彦を引っ張りながらまくし立てた。
「これからさ、ちょっと朝の一発で大抜きしちゃうからあんた、しっかりしこりなよ」
「意味が全くわからないぞ」
いつもの爽やかな朝の挨拶だとは理解しているのだが、何も待ち構えていなくてもいいだろうに。乙彦は古川に負けないよう急いで歩いた。
「遅刻したらしゃれにならない」
「大丈夫だよ、麻生先生さっきまで私たちと話してたから」
「私たちって誰だそれ」
「私と立村」
古川はあっさり答えた。一年A組の教室廊下前で立ち止まり、また倍速でしゃべり続けた。
「種明かしするとね、これから合唱コンクールに関して重大発表があるの。まず自由曲はみんな知ってる『モルダウの流れ』、それと、もめにもめてた伴奏者だけど」
「もめにもめてた?」
「理由はあとで話すから。立村にほぼ内定」
「やはりか」
「あれ、あんたなんで知ってるの? 超機密情報だったのにい」
ふざけつつも少しほっとした顔をしている古川に、乙彦も急いで説明した。
「朝、うちのクラスの奴に俺の方が聞かれたんだ」
「女子には話、しといたんだけどね、男子にばれたってことは内通している子がいるのね、あとでつっこんじゃおうっと。まあいいけどとにかく、この事実はほぼ決定事項だから、今日いきなり私が公表しても、ひかないでよ」
「引いたりする気はないんだが、ひとつ確認させてくれ」
さっきの吹奏楽二人組にも尋ねたことを、もう一度確認した。
「立村はそもそも、ピアノ弾けるのか」
古川も一瞬びくりとしたように身体をこわばらせた。迷う素振りを見せたがすぐに答えた。
「弾けるよ。私がおととい耳と目で確認したからね」
「どうやって?」
「私のうちに来てもらって、うちのピアノ弾かせたの。行けるってのは私の判断。とりあえずさっさと教室入ろうか」
A組の教室に乙彦は押しやられた。すでに教室内は立村を囲むように数人男子たちが固まっている。朝乙彦に食らいついてきた吹奏楽二人組プラスもうひとりも混じっている。藤沖と片岡が遠目から眺めている。女子たちも噂話に余念がない。
「立村、おはよう」
乙彦はすぐに立村に走り寄った。これは本人の口から聞かねばならない。第三者経由の情報よりも、やはり当人が一番正しい。
「それとだ、今、古川から聞いた。本当に、受けるのか」
「何を」
冷静に立村は受けた。驚いてはいない様子だった。
「だから、クラスの伴奏だ。合唱コンクールだ」
立村はやはり穏やかに答えた。乙彦の後ろに立っているらしい古川にちらと目線を送り、すぐに乙彦へと戻した。
「古川さんの言う通りだけど、まだわからないよ。確かに、麻生先生には誰も伴奏者がいなかったら俺が受けるとは伝えておいた。古川さんはじめ、他の友だちにも協力してもらって練習が出来るよう準備しようと思ってる」
いったん切って、口調をひそめるようにして付け加えた。
「でも、俺がそうなれば、の話だけど」
──そうか、本気か!
乙彦の中で湧き上がるものが確かにある。思わず拳を握り締めた。怒りではない、純然たる感動だった。立村の机を思い切り叩いた。
「そうか、とうとうお前もその気になったか! 合唱コンクールといえば燃えないわけないだろうとは思っていたんだが、やはりお前は本気だったんだな。やはりお前は心底、青大附中の評議委員長の誇りを持っているんだな」
溢れ出る言葉で何度もたたえたかった。この不器用な男子が、中学時代は評議委員長として信頼を得ていて、一部の奴らに誤解されつつも懸命に自分の役目を果たそうとしていることは知っていた。一学期にちらと知った藤沖がらみの事件においても、その他伝説と化したさまざまな出来事においても。立村は誤解されやすくおっちょこちょいのところはあるけれど、いざとなったら覚悟を決めて勝負することのできる、男気のある奴だ。なよなよした外見に騙されてはならない。
「いや、そんなわけじゃないよ。どうせ落ちたし」
乙彦の褒め言葉に照れたのか立村はため息をついている。素直に受け取ればいいのだ。どういう事情かはあとで折々わかるだろう。いつのまにか立村の隣りに回り込んできた古川に叱咤激励されている。
「女子たちにはもう、昨日の夜、電話で話しといたから余計なこと考えるんじゃないよ。悩みすぎたらはげるよ。はげはセクシーだけど、今はまだはやいよ」
麻生先生が扉を開けて現れた。ひとまずは立村を称える会終了だ。
古川を相手に麻生先生は軽く掛け合った後、青大附高の合唱コンクールシステムについて説明を始めた。外部生の乙彦にとっては実にありがたいことである。
「青大附高の合唱コンクールは一年から三年まで全クラスが出場するんだ。去年までは全校生徒が自クラス以外に投票する形式をとっていたのだが、今年からは音楽専門の肥後先生が中心に審議をして最優秀賞を一クラス、その他学年内の優秀賞を各学年一クラス。極めてシンプルな形式なんだ。特別賞は今まであったんだが、今回からはなくなった」
──生徒たちが決めるんじゃないのか。
水鳥中学の合唱コンクールの場合は、学年全員で投票する形式だったはずだが。教師主導というのがどことなくひっかかる。麻生先生の説明はさらにヒートアップする。
「ご褒美は見た目には賞状だけに見えるだろうが俺も担任として何にもしないわけにはいかない。それなりの結果を出したからには特別な褒美を取らせる準備はあるぞ」
──それはなんと!
思わず身を乗り出す。宿泊研修時のトイレ掃除付きとはいえ中華料理の豪華なランチを思い出す。あの時初めて静内菜種と隣り合いしょうもない話で盛り上がったのだ。となると、かなり期待していいご褒美だろう。今度は学内掃除がセットになるかもしれないがそれは考えないことにする。
「先生、ひとつ聞いていいですか。合唱コンクールには指揮者賞、伴奏者賞があると聞いていたんですが、なくなっちゃったんですか?」
女子が手を上げて質問を発した。
「よく知っているなあ。詳しい事情ははしょるが、去年から指揮者と伴奏者の個別賞は廃止することにしたんだ。合唱だろ? 合唱とは指揮者と伴奏者と合唱の三拍子が揃わないとむなしいだろ? 総合芸術として評価すべきだという意見が多くなったんだよ」
「へえ、それ知らなかった! けどそれだと伴奏する人張り合いないねえ」
古川がさりげなく立村を見やりつつ茶々を入れる。立村も少し居心地悪そうだ。
「伴奏者の場合は賞狙いでどうしても負担が大きくなるケースが多いのと、特定の生徒しか弾いてはいけないといったような雰囲気もあまりよろしくない、そういうこともあるんだよ」
──伴奏者賞、指揮者賞ってどうやって決めるんだ?
音楽イコール最近はカラオケにしか繋がらない乙彦にとっては、率直な疑問である。
古川こずえの爆弾発言を待ち構えていたのだが、結局持ち出したのは麻生先生だった。
「たとえば、今のうちに話しておこうか、今回の伴奏者なんだが」
少し声をひそめるようにして、ゆっくりと、
「三時間目の音楽の授業で最終決定する予定となっている。エントリーは立村だけなんだが、誰もいないのか、本当に?」
クラス全員に問いかけた。同時にざわめく教室内。女子もそうだが男子たちはすでに情報を把握終わったのか立村をねぎらうようになにかかしら声をかけている。古川も頷きながら立村を励ますように小声で何か言っている。藤沖、片岡だけはどうも面白くなさそうだがこればかりは仕方あるまい。乙彦は立村と目があった時にゆっくりと応援の頷きを返した。麻生先生の再度の呼びかけが響く。
「もし、参加したいんだったらぎりぎりでもいいから手をあげるんだぞ。いいな」